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2007年2月後半
『天国は待ってくれる』をMOVIXさいたまで観る。
エルンスト・ルビッチの名作と同タイトル(邦題)の映画である。どうしてこのタイトルをつけたのか気になる。気になるタイトルではあるが、逆に損なタイトルでもある。面白くて当たり前、ルビッチ以上に面白くなければルビッチを汚すなと叩かれそうだ。それだけ自信があるということなのだろうか。
そんなわけで気になるのに観る気にならない映画だったのだが、疲れて重い映画を観る気がしないときに、ちょっと泣かせる映画で、多少のカタルシスが得られるのならそれもいいかなと思って観てみた。でも泣くこともなく、何の感動もなく終わってしまった。
映画が始まったときに、「Heaven can wait. maybe....」と英題がついていた。ルビッチのタイトルにmaybeがついてるのが余分だが、ルビッチの映画が主人公が地獄の門前で自分の人生を語ることから始まるのに対して、この映画にはそんな死後の世界は出てこない。そういう意味で、あくまで「かもしれない」というのは正しい。
ネタバレありのあらすじは以下の通り。小学生の頃の男二人女一人の仲良し三人組(井ノ原快彦、清木場俊介、岡本綾)は大人になっても仲良しだった。ある日、俊介が二人を呼び出し、岡本綾にプロポーズする。快彦も岡本綾を好きなようだったが二人は似合いのカップルだと二人の結婚を薦める。岡本綾も快彦を気にしながらも結婚を承諾する。
その結婚式の当日新郎の清木場俊介は自動車で事故を起こして意識不明となる。井ノ原快彦と岡本綾は俊介が目を覚ますのを信じて待ち続けるが、三年後周囲の薦めもあり快彦と綾は結婚することを決める。本当はこの二人はお互いを好きだったのである。俊介の病室でそのお祝いをしているまさにそのとき、三年間眠り続けていた俊介が目を覚ます。俊介は事故の頃の記憶を失っていた。二人は俊介のリハビリを応援するが、だいぶ回復してきたある日俊介は激しい頭痛を訴える。奇跡的に目を覚ました俊介だったが、医者は彼の命はあと一月くらいだというのだった。
俊介は自分の死が近いのを知り、二人を呼び出す。自分の好きな女が好きなのは誰かわかる。快彦に綾を幸せにしろと結婚を薦める。二人の結婚式を見たいといい、その式の最中に俊介は死んでいく。(井ノ原快彦は宏樹、清木場俊介は武志、岡本綾は薫という役名だけど、面倒なので役者の名前で。)
仲良し三人組で、小学生の頃は自分たちを正三角形ならぬ聖三角形と呼んでいたが、大人になって三角関係になっている三人なのだが、映画の中で三人の葛藤は全然描かれない。本当は好きなのにその気持ちを隠したり、そういうのは少しずつ見せているけれど、三人が三人ともとってもいい人に描かれすぎている気がする。全然、リアルさを感じないし、そんな中では感動もなにも生まれない。
それは表の話であって、裏を深読みするならば、多少面白くなる。そもそも三人が仲良くなった始まりから三角関係は始まっていたんじゃないか。三人の出会いの場面は、快彦が転校生として教室で紹介される場面で描かれる。快彦は自分の名前を黒板に書いたあと、先生に自己紹介するように言われるが言葉にできないでいる。それを見て、「ガンバレ」と小さく囁く綾に気づき、俊介は自分も前に言って名前を書き「よろしく」という。綾は快彦を好きで、綾を好きな俊介はおとなしい快彦を入れた三人で仲良くなろうとした。そうして生まれたのが聖三角形である。
俊介は快彦と綾がお互いに好きなのを知っていた。けれど、その気持ちを言えないでいる快彦より先に、というより三人いるところでプロポーズをする。三人一緒のときに、快彦が自分を抑えることさらには自分の気持ちを隠して応援してくれることを知っていてあえて三人一緒の場所でプロポーズをしたのだ。その目論見通り、綾もその場で承諾してくれた。
結婚式当日、事故で俊介は死に瀕する。そして地獄の入り口で、自分のしてきたこと−−綾と快彦の気持ちを知りながらプロポーズをしたことを語り、一度地上に戻ることを許された(のかもしれない)。
目を覚ました俊介は、今度は二人を結びつけ、天国に行った(のかもしれない)。とか考えると、『天国は待ってくれる』というタイトルもわかるような気がする。表向き仲良しの三人の中の裏にある激しい葛藤、それらを映画の中で見せずに表向きの綺麗な出来事だけにして見せた愛と葛藤の物語、かもしれない。
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今日、ふと『幸せのちから』のサイト名を見ていて、幸せ<happiness>のスペルが間違っていることに気づいた。というのも、映画の中で息子を預けている託児所があるのが中国人街みたいなところにあって、そこにある看板に「Happyness」とあるのを見て、主人公が何度もスペルが違う、yでなくてiだとか、Happinessの綴りも正しく書けない街などという表現が出てきたからだ。
それなのに、間違えてるのかと思ったのだが、原題を確認したらあっていた。映画のタイトルはわざとHappynessにしているのだった。ポスターではHappyまでを赤字、nessを黒字にして、目立つようになっている。
「幸せのちから」でいう幸せは、そんな息子の託児所の近くのポスターにあるような身近な幸せということなのかな。アメリカンドリームを実現するような成功ストーリーだけど、むしろ息子との交流が重要とかいう映画紹介などで何度か見かけたけど、タイトルにもそんな思いがこもっていたのかもしれない。
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『幸福な食卓』をMOVIXさいたまで観る。
『幸福な食卓』(瀬尾まいこ 講談社)の映画化である。映画を観る前に原作を読もうと思っていたのだが、結局未読のまま映画を先に観ることになる。瀬尾まいこの作品は、『強運の持ち主』(瀬尾まいこ 文藝春秋)しか読んでいないが、この小説で感じたふわふわした感じと同じような雰囲気を得られた。原作の雰囲気をうまく映画にしているのではないかという気がする。
北乃きい演じる主人公の家では、母親は家を出ていて、高校で三年間全科目トップだったという優秀な兄は大学に行かずに農業を始めていた。そして、今日の食卓では父親が「父さん、父さんをやめることにした」と言い出す。家の掃除に来ていた母親(石田ゆり子)は、始業式で早く帰ってきた北乃きいに、葱といためてクリームとしょうゆをかけた蕎麦を作る。兄はギターを弾きながら歌を大声で歌っているばかりかと思えば、突然変わった彼女を連れてくる。父親は「父さん」を辞めただけでなく教師も辞めていて、今度は大学に行くといって勉強を始める。
家族はバラバラ、「家庭崩壊」しているのだが、なんとなくピントのずれたような奇妙な出来事に悲惨感はない。でもふざけた感じはしないのが、なんとなく瀬尾まいこらしい世界だ。
そんな中で北乃きいのクラスに転校生がやってくる。ちょっと変わった彼に北乃きいは次第に惹かれていく。
家族の再生の物語でもあるし、恋愛ものでもある。ハッピーエンドでもあるし、同時にハッピーエンドでもない物語。押し付けがましい感動もなく、泣かせに走りもせず、少しだけ昨日と違う今日の積み重ねみたいなもので出来ている生活とか人生とかを感じる。ちょっとだけ頑張る元気の出てくる映画だった。
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『SPEEDBOY!』(舞城王太郎 講談社)を読む。
「僕」こと成雄はランナーだが、走れば走るほど速くなる。スピードの限界は自分の意識によって生まれる。限界がないと思えばどんどん速く走れるようになり、戦闘機より速く走れるようになる。成雄の少年時代、戦闘機より速くなった成雄のその後などの話が章が変わるごとにランダムに話が続くが、成雄や廻りの人物の関係が少しずつ違っている。だんだん少しずつではなくて、大きく違っている。一章ごとの話はなかなか面白いのだが、半分も過ぎると一体この話がどうまとまるのか気になる。
期待の結末だが、ばらばらな話は最後の章でまとまる。ジャンル小説的なSF的な結末でも夢落ち的でもなく、いや両方の雰囲気はあるのだが、むしろ文学的とでもいうような終わり方をする。
決してつまらなくはないのだけれど、個々のエピソードがジャンル小説的なので、ジャンル小説的な解決がほしい。その辺が物足りない。
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今日から休暇を取り、少しばかり世間から隔絶した生活を過ごす。夏休みがとれなかったので、別のところでは「季節外れの夏休み」などと言ってみたりもしたけど、なんとなくいじけっぽいので、単に休暇ということで。折りしも本がまとめて6冊ほど手に入ったので、最近停滞気味の読書を進めたいところ。
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『Gガール 破壊的な彼女』をMOVIXさいたまで観た。
原題は「My Super Ex-Girlfriend」。どこにも「Gガール」なんて出てこないじゃないの。コピーには「逆切れガール」とかあるので、それで「Gガール」なんてセンス悪いと思っていたが、映画本編でユマ・サーマン演じるスーパーガールが「Gガール」と呼ばれていたので早合点。
しかし『猟奇的な彼女』の捩りの「破壊的な彼女」ってのは気にいらない。安易な邦題のつけ方はやめてくれと思ったが、意外に「破壊的な彼女」というのはピッタリなタイトルなのであった。
ストーリーはタイトルで半分判るとおり、スーパーガールの「Gガール」と恋に落ちるが、意外にGガールは切れやすい女の子だった。別れ話を持ち出したら、正義の味方とは思えない仕打ちをしてくるというコメディ。
恋愛コメディなのだが、Gガールの誕生秘話、敵の極悪人なども出てきて、スーパーマンのパロディとしてもよく出来ている。Gガールを演じるのはユマ・サーマンだが、ユマ・サーマンの切れ具合もなかなかいい。B級的な話なのに、役者もメジャーどころを出してきて、SFXもきちんとしている。
ただ下ネタというか、セックスネタが多くて下品。かなり昔の映画だけど、『ポリス・アカデミー』とか思い出した。自分が観ていないだけかもしれないけど、最近こういう下品な笑いで一杯の映画ってあまり見かけない気がする。
関係ないが、スーパーマンの下ネタ系パロディとして、『無常の月』(ラリイ・ニーヴン ハヤカワ文庫)収録の「スーパーマンの子孫存続に関する考察」を思い出した。スーパーマンのセックスについて「真面目に」論じたパロディなのだが、読んだことも忘れていたのにふと思い出した。人間の記憶って面白い。
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『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(スーザン・A. クランシー ハヤカワ文庫)を読む。
本屋でタイトルを見て思わず手にとってしまった。内容はタイトル通りである。エイリアンにアブダクション(誘拐)されたと訴える人々をアブダクティ、それを信じる人をビリーバーという。著者はアブダクションは事実ではないという立場で、アブダクティがアブダクションされたと信じる理由はなぜなのかを研究する。
最初から著者はアブダクションの研究をしていたわけではない。1章ではその経緯が語られる。元々は、「回復された記憶論争」の最高潮の頃子供時代の性的虐待の記憶を持つ人には、偽りの記憶を作る傾向があるかどうかの調査をしていた。当時、心的外傷を受けた人々が防御のためにその記憶を抑圧していて、催眠療法などで記憶を取り戻すとされていた。セラピストの催眠療法によって子供時代の性的虐待を思い出す人々がいる一方で、その思い出した記憶が事実ではない可能性も多々あり、その記憶が作られた記憶ではないか、偽りの記憶を「思い出した」人たちは元々偽りの記憶を作りやすい傾向があるのではないか調査をしていた。しかし、この調査では虐待の被害者の記憶を疑うことになり、「政治的な狙い」を勘ぐられるなど純粋な調査をする上では様々な障害があった。
そんなときに、エイリアンのアブダクションで同じような調査があり、アブダクションは実際に起きたことではなさそうに思えたことなどから著者はこの調査に参加することにする。
以降、章のタイトルを眺めるとこの本の趣旨がわかりやすい。「なぜエイリアンに誘拐されたと信じるようになるのか?」「もし起きていないなら、なぜ記憶があるのか?」「アブダクションの話は、なぜこれほど一致しているのか?」「どんな人が誘拐されるのか?」「もし起きていないなら、なぜ起きたと信じたがるのか?」。
面白いのはアブダクションの記憶がある人はSFマニアやちょっと変わった人ではなく、少しの例外を除けばむしろいい感じの人や大学教授のような高学歴の人にもいるということだ。それとアメリカ以外ではほとんど見られないということ。確かに日本でアブダクションの話題ってあまり聞かない。UFOの話だって、矢追純一の専売特許のようで、矢追純一に続く人が見られない。
アブダクティが自分がアブダクションされたと思うきっかけのひとつとして、夜中に目を覚まし躰の自由が利かず、何者かが近くにいるという出来事があげられている。これを読んでいても思ったのは、これは日本でいうと金縛りじゃないか、ということ。だがこの現象は宇宙人の人体実験と考えるより妥当な理由として、睡眠麻酔というごく普通に起こりうる現象で説明がつくのだそうだ。
日本人には宇宙人にアブダクションされた人がいないのは、宇宙人ではなく幽霊に金縛りにあったり呪われているからなのかもしれない。アブダクションはきわめて文化的な現象のようで、宇宙人に誘拐されるのはほとんどアメリカ合衆国に限定されているらしい。
アブダクションされたという人が増え出すのは、テレビや映画でUFOや宇宙人の存在が広まる時期で、アブダクションの記憶を持つ人たちはこれらの映画やテレビを見ているらしい。X-ファイルなどのテレビドラマが海外でも放送されるようになると、もっと宇宙人にアブダクションされる人が増える可能性を指摘していて、日本でももしかしたらこれから増えていくのかもしれない。
ここには書かないけれど、結論はちょっと弱い気がした。もっとすっきりと、なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのかを示してくれるのかと思ったが、そこは仮説の域をでない。ただ、アブダクションについて考えることは、心霊現象について考えることに似ているような気がしてきた。理屈だけでは心霊現象すべてを説明できないことを考えると、結論がここまでで終わってしまうのも仕方がないことなのかもしれない。
それとこの本で現象の説明や仮説よりも面白いのは、著者がインタビューした人々のアブダクションの経験談である。そういう経験談だけ集めた本もあれば、面白いのかもと思って巻末の有名なアブダクションの本をチェックしてしまった。そのうち読むつもり。
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休暇に入ってから、沢山眠っている。十分睡眠をとると、夢を見る。いろんな夢を見てそのめくるめく世界が楽しくて仕方ない。目が覚めて思い出すと、実際に夢を見ていたときほどの斬新さや奇抜さがないのが残念だが。
眠りすぎたせいか、今夜は眠れない。
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『結婚写真』(中江有里 NHK出版)を読んだ。
去年の5月に「週刊ブックレビュー」をたまたま見たら、司会として出演していた中江有里が女優だけでなく、BKラジオドラマ脚本コンクールで最高賞を受賞し脚本家としても活動していることを知ったことを書いた(日付変更線と「週刊ブックレビュー」)。その彼女の処女小説である。書き下ろしで、受賞したラジオドラマの脚本を小説化した書き下ろしの「納豆ウドン」も同時収録している。
『結婚写真』は女子高校生の満とその母親、離婚して父親はいない家庭を中心に、母親の恋人林さんや満の幼馴染の洋ちゃんなどの登場人物を絡めながら、満と母親の日常を描いている。冒頭から語り手を満、母親と切り替えて、ひとつの出来事に親子で微妙な気持ちのずれを描いたりして面白いなと思いながら読み始めた。
3分の1くらい読んでようやくタイトルの「結婚写真」にまつわるエピソードが出てきた。意外とあっさりとエピソードは終わってしまい、不思議な話だなぁと思った。不思議というよりはむしろ構成が起承転結のようなかっちりしたものではないからだと思った。読み進むうちに再び、「結婚写真」は出てきて物語の最後までひとつの線はつながっていた。そうすると気になるのは「結婚写真」が初めて出てくるところだが、出てくるのは3分の1も過ぎた後でやっぱりずいぶんと遅い気がする。そこにつながるエピソードもあるといえばあるのだが、もっと早い部分で出てきた方が構成としてしっくりくる。
だが、この小説は全般的にそういう例えばテレビドラマのように第1話で5人なり10人なりの登場人物が出てきて、いろいろ絡み合って最終話で何人が結婚したり別れたり去っていったりという登場人物たちのある種の結末があるというような作りにはなっていない。最初から登場する人物が必ずしも最後までいるわけではなく途中でフェードアウトすることもあれば、途中から重要な役割の人物が入ってきたり、物語も結構予想外の展開をするのだが、それが紆余曲折の上まとまるのではなく意外な展開は修復できないまま唐突に終わったりする。
満と母親の人生についていえば、最初から最後まできっちり描かれて、その中では「結婚写真」というのはずっとひとつの象徴だったりいくつかの出来事のきっかけになったりして物語の中に存在している。最初は不思議とも雑然としている気もしたが、人生の一部を切り出したような気がして、現実の人生はこんな風なものだと思えた。作為的な物語ではなく、人生の一部を自然に切り取った物語という気がした。
そんな風に感じたのは、小説の長さに比べて、結構長い時間が流れているせいなのかもしれない。そして長いわりに起こっている出来事には劇的なひとつの出来事があるわけではなく、一組の親子のというよりは女性の恋や結婚に対する思いという日常的な出来事だけだからなのかもしれない。そこがとても面白かった。
『納豆ウドン』の方は、元々ラジオドラマとして書かれた話である。こちらの方はずっと普通の物語、というのは変だが物語的な構成として普通にわかりやすい。高校生の由実は、弁当屋を経営する父、心の病で声を出せなくなった母の三人で暮らしている。父の弁当屋を手伝っていた藤岡さんが急に休むことになり、代わりのアルバイトがくることとなり、それと同時に父が突然「頭のよくなる弁当」を考えろと言い出すところから物語は始まり、弁当の完成とアルバイトが辞め藤岡さんが戻ってくるところで終わる。もちろんその中で母の病でギクシャクしていた家族の関係が少しばかり回復する。
代わりのアルバイトや「頭のよくなる弁当」については、あえて読む楽しみを奪う必要はないのでここでは書かない。
ラジオドラマとして書かれたというのを知って読んでいるせいか、このあたりはどういう風にドラマでは脚本にしていたのだろうという想像をするのも面白かった。あとがきに書かれていたのだが、ドラマで声のない人物は存在しないも同然だが、この物語には声を出せなくなった母親というのが出てくる。あえて「存在のない母」を登場させてみたかったというのだ。ドラマではどういう風に「存在させた」のか気になった。
小説家中江有里も、ちょっといいなぁと思った。
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『アルゼンチンババア』(よしもとばなな 絵+写真 奈良美智 ロッキング・オン)を読んだ。
先日映画館で映画化された『アルゼンチンババア』の予告を観て、久々によしもとばななを読んでみたいと思った。ロッキング・オンから出ているハードカバーは、小説本文に加え、全文英訳が片側に対訳風に配置され、奈良美智の描き下ろし絵画16点と撮り下ろし写真40点が全頁に亘って挟まれた絵本のような装丁になっている。幻冬舎から文庫版『アルゼンチンババア』(よしもとばなな 絵 奈良美智 幻冬舎文庫)もでているが、文庫版は写真はなく巻末にまとめて収録されているみたいだ(現物を見てないので判らないけど、英訳もないのかも)。
「私」の母親が死んだとき、父親が失踪する。そしてアルゼンチンビルと呼ばれる廃墟のようなビルに住むアルゼンチンババアと呼ばれる奇妙な女性と住んでいることが判る。「私」はそこで父と再会し、アルゼンチンビルをしばしば訪ねては、父とアルゼンチンババアと時間を過ごすようになる。その生活を通して、「私」は母の死を改めて受け止め、また死と生について考える機会を得る。
あまり書くことはない。短い話だけど、アルゼンチンババアとアルゼンチンビルでの出来事はちょっと変だけど別に特別なことでもないのだけど、なんとなくいい。いつものよしもとばななの世界。
ちょっと面白いのは、装丁を含めた本の作りである。奈良美智の絵はストーリーにあわせた挿絵といっていいけど、写真の方はストーリーと必ずしも関係ない。そして見開きにある英訳の方も読むともなくちらりと見たりしてしまう。そういういろいろが合わさって、アルゼンチンババアの世界はちょっと広がってるかもしれない。
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『太陽の塔』(森見登美彦 新潮社)を読んだ。
『夜は短し歩けよ乙女』が好評の森見登美彦のデビュー作、第15回日本ファンタジーノベル大賞の大賞受賞作である。『夜は短し歩けよ乙女』の評判がいいみたいなので、ならばデビュー作から読もうと手に取ったので、作風も何も知らずに読み始める。ただ、ファンタジーノベル大賞受賞作というので、ファンタジーを想像して読み始めた。
冒頭、京都に住む京都大五回生の「私」が語り手だが、持ってまわった独特の語り口がねちっこく、妄想的傾向があることが次第にわかってくる。この妄想傾向が、何らかのファンタジーの世界につながる入り口なのだろうと思って読んでいたら、最後まで妄想話で貫き通して終わる、そういう話だ。妄想だけでファンタジーだといいきる物語を成立されてしまうパワーには敬服する。
「私」は女性と縁のない生活を送っているが、三回生のときになぜか恋人となりしかし突然一方的に振られることとなった元恋人水尾さんの「調査」に向かう。これはあくまで学術的調査であり未練などではなければ、もちろんストーキング行為などではない。しかし、本屋で待ち伏せしているときに現れた植村嬢の「邪眼」に怯え、マンションの近くへと待ち伏せ場所を変えると、水尾さんに頼まれたという、やわな男に「水尾さんに付きまとうな」と言われて、小人物に一々説明不要と無言で立ち去る。語り手の言葉の端々にそんな言い訳がましい言い回しを含みながら物語は進む。
このときのやわな男に加え、「私」同様にひたすら男のみで語り合い、クリスマスを敵視し、男女交際を否定する仲間3人や、京大狩りの集団など、そして「私」がその素晴らしさを教えた太陽の塔(岡本太郎の!)に「私」以上にほれ込んでしまうちょっと変わった水尾さんなど、話は妄想だけで突き進んで、クリスマスの夜に怒涛の大団円?を迎える。
失恋感情と恋愛の妄想は誰にでもある共感を得やすいのだが、その妄想が際限なく過激に突き進んでいくので、全く理解できないか苦笑いしながら頷いてしまうかどちらかになりそうな気がする。後者の人、特に妄想系が発達している人は、苦笑いが次第に過去に記憶された痛みや恥ずかしさや懐かしさなんか一緒くたになって、わけのわからない感動を得られるかもしれない。
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休暇中(まだ続いているが)は、ノートPCを持って別荘生活だったのだが、一週間ぶりに帰宅。その帰りに鞄から怪しげな音がする。キュウキュウに詰めた鞄に鳥が入っていて苦し紛れに啼いているような音。鞄を覗くと、電源を落としたはずのノートPCから聞こえる。クッション入りのケースから出して見ると、休止モードになる途中のまま画面が止まっている。仕方がないので電源を落とすが、それ以来二度と立ち上がらなくなってしまった。キュウ。
最近は、自室のデスクトップはほとんど使わず、リビングでも和室で転がってでも、今回みたいに外出でも場所を選ばず使えるので、ほとんどノートばかり使っていて、ノートPCの方がメインPCになってしまっていたのに。
というわけで、久々に今は自室のデスクトップからこれを書いている。
PCなんて寿命が来たらデータもろとも諦めるという潔い?主義なので、バックアップなんかとっていない。それでも、あれだけはバックアップしておけば良かったなぁというのが二、三あってちょっと哀しい。一番困るのは、自室でしかPCを使えないこと。
さてどうしよう。Vistaがもう少しこなれるまで今のノートを使うつもりだったけど、新しいノートを買うかどうか。宮沢章夫の『レンダリングタワー』(アスキー)に、ノートPCは人間をダメにするというような話があって、大笑いするほどもっともだと思ったことがある。この際ノートは買わずに、PCを使いたいときは自室のデスクトップのみに限定するべきかもしれない。
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その後、ノートをリカバリすべくいろいろ試してみた。データはいつか消えるものと思っているので、比較的早めに諦めてもう再インストールしようと決めた。しかし、ハードディスクを認識しないのであった。電源を入れると、HDがウィンウィンと唸っていて、HDから立ち上げようとするとNo SystemになるのでHDが飛んだんだと思っていたのだが、違うのか?
HDが無事なら修理に出せばデータは救えるな。しかしよく考えてみたら、HDが飛んだだけなら新しいPCを買う必要は必ずしもなかったね。でもなぁ、修理するくらいなら新しいPCを買った方が良いような気もするし。
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ノートPCが故障した所為で、自室でネットにアクセスする。
最近、テレビドラマを見るようになってから、テレビを見過ぎる傾向にあるが、テレビのない自室に籠もって作業をしていると、ムダにテレビを見なくていい。リビングでテレビを眺めているときに、ネットですぐに調べたいことを調べられないとか、つまらない番組を斜めに見ているときにネットにアクセスできないとか、不便な面もある。しかし、ノートでいつでもネットにアクセスできると、食事をしながらネットにアクセスしたりとか、動かずに物をいろいろ廻りに持ってきて、ノートPCを中心にエントロピーが増加していくという被害からは免れることができる。どちらがいいのか。
デスクトップのPCでネットにアクセスしていると、ノートでブラウザにブックマークしたものなど環境変化の不便さを感じる。アンテナなど、インターネット側に情報があるものは影響がないわけで、試しに使っている程度のはてなブックマークなどももっと活用しておけばよかった。
そんなわけで、先週Webで見かけて気になっていた本が見つからず、いろいろ探しまくったりしていた。結果見つけたのだが、その最中に、Amazonのアソシエイトインスタントストアを見て興味を持つ。存在自体は知っていたけれど、今まで作るのが面倒な気がして手をつけようとしていなかった。他の人の作っていたサイトを見ていいなと思ったのは、amazonにリストマニアっていう、商品のリストを作る機能があるけれど、それもメニュに表示できることだ。
自分のスタイルのストアを作りたい願望って、サイトを持っていて本好きだったら当然あると思うのだけど、急にそういう願望を刺激されて作ってみた。それが露地書房。デザインがあまり自由にできないのがちょっと不満。カテゴリの分類などがもうちょっと自由にできたらいいなと思う。とはいえ、こちらもまだカテゴリ作り自体がやっつけなので文句を言える筋合いではないが。
自室で作業していたら、集中して余計なことをしてしまった。こんなことしてる場合じゃなかった。
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『僕は妹に恋をする』
『マリー・アントワネット』
『どろろ』
『墨攻』
『愛の流刑地』
『守護神』
『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』
『幸せのちから』
『天国は待ってくれる』
『幸福な食卓』
『Gガール 破壊的な彼女』
読書
『マルドゥック・ヴェロシティ 3』
『ドキュメンタリーは嘘をつく』
『SPEEDBOY!』
『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』
『結婚写真』
『アルゼンチンババア』
『太陽の塔』
『人はなぜエセ科学に騙されるのか 上』
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