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2007年4月後半
amazonからのDMで、橋本一子の新譜『Vega』の発売を知る。早速amazonをアクセスしたら、これに先立ち『Ub-X』なるCDがあったことも知る。ずっと橋本一子さまの新譜は出ていないと思っていたよ。普段要らないとおもっていたamazonのDMだが、今回ばかりは感謝。
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冒頭に海野藻屑という少女のバラバラ死体が発見されたという新聞記事の抜粋がある。そして、本編はその海野藻屑が転校してくるところから始まる。物語の語り手「あたし」こと山田なぎさは、生活するために金を稼ぐことが第一という中学生にしては早すぎる現実主義者。対する海野藻屑は、自らを人魚といい、(他人には事実だと主張し続けるが)空想の世界に生きる少女だ。山田なぎさの兄の言葉で喩えれば山田なぎさは実弾主義であり、海野藻屑は砂糖菓子の弾丸で中学生の幼い人生を戦っていた。戦っていたというのは、物語の最後で判ることなのかもしれないが。
表紙の甘ったるいイラストからは想像できない、実はちょっと重い物語である。バラバラ死体が発見された新聞記事から始まるミステリーの体裁をとっているが、中学生の少女にとっての過酷な人生の戦いの物語だと僕は思う。本を手にしたときには、ちょっと読むことを躊躇ったけれど、なかなか面白い小説だった。
面白いというのは単体でも面白いともいえるのだが、むしろ僕が面白いと思うのは、桜庭一樹の作品は本作を含めて三作しか読んでなくてこういうのもおこがましいのだが、この作品は処女作ではないが、桜庭一樹の原点ともいえる作品ではないかと思うのである。『赤朽葉家の伝説』を読んだあとだからこそ、より面白く感じたのだ。
以下、本書のストーリーに触れるだけでなく、『赤朽葉家の伝説』と『少女七竈と七人の可愛そうな大人』の内容にも触れるので、どちらも未読の方、そして読む前に何も知りたくない方はここまでにされたい。
桜庭一樹の原点ではないかと思ったのは、この物語の骨組みが『少女七竈と七人の可愛そうな大人』や『赤朽葉家の伝説』に出てきたエピソードに類似している、というか反復されたテーマのように繰り返されているように思ったからだ。
まず本書の山田なぎさと海野藻屑は、『赤朽葉家の伝説』の万葉と幼なじみのいじめっ子の黒菱みどりと凄く似ている。一方的に絡んでくるとか、最初は敵同士のような関係なのに最後には特別な存在になるという友人関係が似ている。これは『少女七竈と七人の可愛そうな大人』でも、似たような関係で七竈の後輩が登場する。『赤朽葉家の伝説』での毛鞠と百夜の関係も変形かもしれない。
また美形の兄の存在。山田なぎさには美形の兄がいるがひきこもりで役に立たない「貴公子」のような存在なのに対し、『赤朽葉家の伝説』の黒菱みどりの兄も美形でしかし戦争から帰ってきた彼は精神に異常をきたしている。『少女七竈と七人の可愛そうな大人』では七竈自身も美形だが、母親の違う兄弟がやはり美形で、二人は酷似している。物語の最後で、少年との別れがあるが、そのとき少年は男性らしく様変わりをしている。山田なぎさの美形の兄も、物語の最後にひきこもりから脱すると長い髪を切り貴族のようだったのが知らない普通の男のように変わる。
そして『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の一番重要な話、バラバラ死体。海野藻屑の飼っていた犬はバラバラにされ蜷山に運ばれ、のちになぎさと藻屑は連れだって山に向かい、犬のバラバラ死体を見つける。後に藻屑自身もバラバラ死体となり、なぎさは今度は兄とともに山に向かい、藻屑のバラバラ死体の存在を知る。
黒菱みどりの兄は電車にひかれてバラバラとなり伝説の山の民に山に運ばれ、のちに万葉とみどりは連れだって山に向かい、みどりの兄の棺を見つける。
ここで作品論を論じるつもりはないので類似点を書き出すにとどめる。ただこの類似点だけでも、桜庭一樹の友情感や、兄という存在への憧憬について考えてしまうし、バラバラ死体を特別な友人と探しに行くことの意味などは、桜庭一樹の作品を読み解く鍵になりそうな気がする。そういう意味で、この『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は物語のもつ面白さ以上に面白いものがある。
[ 『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』 桜庭一樹 富士見ミステリー文庫 ]
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「映画をめぐる怠惰な日常 4/15」で金田一耕助の映画に関する面白い話を知ったのでリンク。石坂浩二のトーク&サイン会での情報だそうで、詳しくは上記記事を。
面白かったところを引用。
「現在、市川崑は『犬神家の一族』の新旧版をMIXさせたバージョンを製作しているとかで、石坂曰く「金田一がジジイになったり若返ったりする」そうだ。」
マジですか。ちょっと思いつかない。新版は期待はずれだったが、こんな話を聞くと、これはこれで観たくなる。
「更に新作として、『本陣殺人事件』の準備に入っており、又、市川崑が監修に立って弟子筋の監督達による金田一映画を作る企画も進んでおり、岩井俊二が『悪魔が来りて笛を吹く』、手塚昌也が『三つ首塔』を映画化するそうだ。全て石坂浩二が主演する」
これもすごいや。
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「映画をめぐる怠惰な日常 4/15」の金田一耕助の映画に関する面白い話は、4/1のエントリということである。本気で期待していたのにな。
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こらないの「新訳カラマーゾフの兄弟」を読んでちょっと驚いた。
亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』が3巻まで訳されているというのは知っていて、全巻訳されたら買おうかなとは思っていた。こなれた読みやすい訳らしいというので、ちょっと期待もしていた。
このエントリを読んでいて驚いたというのは、その読みやすさの秘密である。U5さんは、「人を指す際に、姓とか名とか愛称とか続柄(兄とか弟とか)とかで呼ばれるものだから、どれとどれが同一人物を指してるのか、追えなくなっちゃう。」と書いていて、この気持ちはよく判る。
でも、「そしたら、そのあたりをほぼ1つの呼び方にまとめて訳したという、新訳のカラマーゾフが昨年9月に出ていた! 」というのである。え、まさかという気がしたので、amazonとかいろいろ調べてみたら、どうやらその通りらしい。
昔の訳は、やたらと漢字の多い文章で読みにくかったり、今となっては古くさい気がする部分も多々ある。それを読みやすく、新たに訳し直したというのはいい。いいというか、実際に読んでいないのでなんともいえないけれど、考え方としては理解できる。(理解できるけど、気に入るかどうかは別ね。)
でも呼び方をまとめてしまうというのはどうなんだろう。
前にも誰かが、ロシア文学は名前が長ったらしくてわけがわからないと、おもしろおかしく書いていたのを読んだ記憶がある。そのときに思ったのは、そんなにわかりにくいだろうかという疑問だった。少し、わざとおもしろおかしく書いているのだろうと思っていた。
確かに名前は長くて、また呼び方がよく変わる。『カラマーゾフの兄弟』なら、主人公はアレクセイ・フョードロウィチだが、ときにはアレクセイだけになったり、愛称のアリョーシャと呼ばれる。アレクセイとアリョーシャはまだ似ているが、兄のドミートリィになると、愛称はミーチャだったりして、愛称が頭に入っていないとわかりにくいかもしれない。僕の名前の由来である『罪と罰』のロジオン・ロマーヌイチの愛称はロージャだ。
でもアメリカ人だって、ロバートの愛称がボブだったり、エリザベスがベスだったりするし、そもそも愛称は同じ名前に一通りしかないわけではない。
長ったらしくなるのは名前のあとにつける父称ってやつの所為で、ロジオン・ロマーヌイチのロマーヌイチがそれだ。ややこしいことに、男性と女性で父称の語尾が変化する。例えば、ロジオンの妹の名前はアヴドーチャ・ロマーノヴナになる。苗字も同じように変化するのでフルネームだと、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフとアヴドーチャ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコヴァとなって、兄妹なのに名前以外の部分も違ってしまう。
そしてアヴドーチャ・ロマーノヴナがそう呼ばれるのは、正式なときだけで、あとはだいたいドゥーニャとかドゥーネチカと呼ばれている。
父称の変化について、もっと知られている名前で例をあげると、旧ソ連の大統領ゴルバチョフの夫人は、ライサ・ゴルバチョヴァである。
こう書きだしてみると、これが一人や二人ならいいにしても、十数人の登場人物か出てきたら、慣れるまでは確かに混乱するかもしれない。でも、例えばアヴドーチャ・ロマーノヴナがそう呼ばれるのは、正式なときだけと書いたけど、挨拶するときにはアヴドーチャ・ロマーノヴナと名乗るけど、母親や兄はそんな呼び方をしないで、ドゥーニャとかドゥーネチカって呼ぶのだ。別にわかりにくくするために呼び方を変えているわけではないはずだ。それをどれくらい統一したのか知らないけど、統一してしまっていいもんなのかと思う。
亀山郁夫がやっていることだから、それなりにキチッとやってるのかもしれない。ろくにロシア語も読めない僕が言うことじゃないかもしれない。ある意味、枝葉末節に拘ったことかもしれない。それよりも、まずは読みやすくなり、読んで貰える方がいいのかもしれない。そんな名前の呼び方だけで、読まれないのはもったいないという考え方もある。
でも、なんだかその読みやすい訳というのは、アカデミー出版の「超訳」みたいな気がしてしまって、なんとも納得できない。
『源氏物語』の現代語訳みたいなものだと思えばいいのだろうか。現物で確かめるしかない。
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昨日書いた『カラマーゾフの兄弟』のことがやっぱり気になるので、亀山郁夫のブログcafe MAYAKOVSKYを遡って読んでみた。最近気がついたので、過去ログは読んでいなかった。
古い方から翻訳の話を中心に読み飛ばしていくと、「Da42. Story of Errors」というエントリで、『カラマーゾフの兄弟』1巻の最終ゲラチェックの話が書かれていた。「著者より」の冒頭の「わが主人公」という言葉を巡ってギリギリまで言葉を選び続ける様子が判る。
「古典新訳文庫というキャッチフレーズ」を念頭に、古くさい言葉遣いを避け、リズムを大事にしているようだ。「原文を捻じ曲げてでも」訳語を変えるべきか気になっていた点について、担当の副編集長にぶつけると、原文通りで今の言葉に決まる。そのあとの言葉として、「これでほっとしました。リズムを重んじたために、後で誤訳を指摘されて眠れない日を送ることはこれでなさそうです」と続く。
昨日の疑問は、このくだりだけ読んでも考えすぎなのかと思った。いや、むしろ考えなさすぎというべきか。ああ、なんか亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を無性に読みたくなってきた。
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ノートPCが壊れてからかれこれ1ヶ月半以上過ぎた。もうすぐ2ヶ月になる。ノートがないことにもすっかり慣れて、何の不便も感じることなく自室のデスクトップを使っている。そうなのだ、別にノートPCはなくても困らないことがわかった。あると便利なんだろうけどね。それでも、ときどき、ビックカメラを覗いたり、Webでパソコンの値段を見たりする。Vista搭載ノートを買うのを楽しみに、あれこれ比較している今の時期が、実は一番楽しい。パソコン購入貯金を始めることにした。
それで、パソコンの故障が切っ掛けで、ソーシャルブックマーク(僕の場合、はてなブックマークを使用。露地栞)を使い始めた。前にも試したことはあるのだけれど、使い道がよくわからないまま放置していた。今回は、意識的に使おうと思っていろいろ触ってみたのだが、そうしたらようやく使い道が見えてきた。
ソーシャルブックマークがどう考えられているのかなども知る。例えば、他の人のブックマークを利用して情報を収集できる「集合知」としてのソーシャルブックマークとかいう考え方とか。これには少しも納得できなかったが、「集合知ではなく集合痴でしかない」というような批判も目にして、初めて合点がいく。結局のところ、いいブックマークをしている人を見つけないとダメなのである。
自分の使い方としては、情報収集は期待せず、単純に自分のインターネット上にある便利なブックマーク機能として使うことにした。整理せず、あとで検索できるようにタグをこまめにつけて、ただ蓄積する。これをもとに日記に書いたり、リンクしたり、利用し終わったら削除してしまう。あくまでもワークエリアとして使う。
ソーシャルブックマークとしては、公開するのでもし僕のブックマークが役に立つ人がいれば利用してもいい、というだけの緩いスタンスでいくことにした。
ちなみに僕が気に入ったブックマークは今のところ一つだけ。2006年以降公開待機映画というもので、見て貰えばすぐ判るけど目的がはっきりしているので便利である。
はてなブックマークを使ううちに、ブックマークするにはROJIXのファイルの形式が不便であることに遅ればせながら気づいた。そんなこともあって、やっぱり何でも使ってみないと判らないと思い、ずっと利用してなかったRSSリーダーを使ってみた。ROJIXをリニューアルした頃にはまだRSSもそんなに使われてなくて、あると便利くらいにしか思っていなかったのだが、今やほとんどのサイトでRSSを持っていて、RSSリーダーを使えばほとんどのサイトの記事が読めるようになっていた。そして、いうまでもなくRSSに対応していないROJIXはデータを取り込めないのであった。
考えてみれば、今のデザインにリニューアルしたのは、2005年のことでもう2年も経っているのである。2005年から、ROJIXというサイトは進化していない。というか自分自身も、ソーシャルブックマークもRSSリーダーも使わず、ずっと進化しないまま来てしまったのだと、今頃気づいた。
アンテナも今やRSSに対応していないサイトをチェックするのが中心になっているみたいに思えてきた。インターネットを始めた頃、パソコン通信ならオートローダで自分の見たいものを自動的にダウンロードできたのに、インターネットはそれができずものすごく不便だと思っていた。それが、WWWCで更新をチェックできるようになり、各種アンテナを利用したり、そのうち自分用のアンテナが作れるようになり、というようにだんだんに進化を続けていたが、今ではRSSリーダーはパソコン通信のオートローダよりずっと便利になっているのだった。
いつの間にか、RSSを対応していない僕の日記は読まれなくなっても仕方のないところに取り残されているのである。まるで無人島で日記を書いているようである。と考えると、アンテナに登録したり、リンクしてくれたりして、わざわざ読みに来てくれる方がいるというのはものすごくありがたいことだ。その上「映画の感想を楽しみにしているサイト」とか書いてもらうと、張り切ってしまう。
そのまま無人島で日記を書き続けるというのもありなのだが、そういうわざわざ読んでくれている方にもRSSに対応していないから不便だと思われているとしたら、それは申し訳ない。というか、RSSリーダーを自分で使ってても不便だ。自慢じゃないが、僕の日記の一番の読者は僕なのである。ははは。(なんか田中さんみたいになってきた。)
そんなわけで、最近はてなダイアリーで実験(実験を終えて、ボルシチノートというコンテンツにした)したりしてたのも、RSSを生成するのに参考にしてみたり、わざわざRSS生成するんじゃなくて、ブログサービスを利用しようかとか、ブログツールをインストールしてみようかとか、考えてのことだった。なんでもRSSでのRSS生成を試したら、日記のエントリーにhタグがなくて期待するようにRSSができなかったで、h3タグを追加してみたり、見た目変わらない修正もしてみたりしていた。
で、いろいろ試してみて思ったのは、ブログツールをやっぱり入れようということである。調べながらRSS生成の自動生成の仕組みを作ったりとかするのは好きなのだが、他にも未だにHTML4.0なのを何とかしたいとか、やりたいことは山ほどある。そしてWebは進化を続け、人生には限りがある。
長々と書いてきたけど、そろそろmovable typeかなにか、ブログツールをいれてみようと思う、ということを言いたかった。それまでの間、もうしばらく無人島で日記を書き続ける。
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田中さんおすすめの『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆 文藝春秋)読了。面白かった。
続けて、映画が面白かった『プラダを着た悪魔』(ローレン・ワイズバーガー 早川書房)を読み始める。
映画『デジャヴ』を観る。タイムパラドクスものとしてキチッとした上でのアクションもので楽しめた。
Production I.G制作の『REIDEEN』が近々発売とか。というか、WOWOWで放送中だって。すごく観たいんだけど。
ビール2缶、そのあと黒白波のお湯割りを飲みながらネットを見たりしている。そろそろ眠気が限界に近づいてきた。
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Quinka, with a Yawn(公式サイト)で、『LOVES』(D.H.Y)の発売を知る。D.H.Yとは、Dogs Holiday of Yawnの略らしい。ヴォーカルがQuinkaさんで、有名な曲をあの声で歌っている。
収録曲は、次の10曲。
01. ラブリー(小沢健二)
02. さよなら夏の日(山下達郎)
03. TOMORROW NEVER KNOWS(Mr.Children)
04. 桜坂(福山雅治)
05. やさしい気持ち(CHARA)
06. 白い恋人達(桑田佳祐)
07. TRUE LOVE(藤井フミヤ)
08. ここでキスして(椎名林檎)
09. 散歩道(Judy&Mary)
10. FIRST LOVE(宇多田ヒカル)
そのうち半分の5曲は、Softly! トリビュートアルバムで試聴できる。
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『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆 文藝春秋)は、時間的な都合で足かけ3日かけたが、実際に読んでいる時間は短くあっという間に読了してしまった。面白くて、逆に何でこんなに短いのかという不満をもったくらいだ。そして、最後の一文で締めているものの、なんでここで終わってしまうのかという物足りなさも感じた。
早速、感想を書こうと思ったのだが、書くことを考えているうちにだんだんと不満ばかりが出てくる。まずは短いのではないか、二倍くらいの長さがあってもいいんじゃないか。あるいは、作中の作家の書いた小説が出てくるが、冒頭部分しかないが作中小説も結末まで書いて、本編と話が交錯することはできなかったのか。さらに作中小説の登場人物が一段階上のレベルにあがって、『ベラス・レトラス』という小説の中で作者と出会うが、他の小説の登場人物たちともっと混ざって混乱するような物語にならなかったのか、などなど思い始めた。
物語の結末も最後の一文の意味があとから二通りに考えられるように思い始めた。つまり「文学」という船は船首像が導いてくれるという希望なのか、船首像が必要だということなのか。その結論を放り出して物語を終えているんじゃないか。
そんなことを考えながら、感想を書き始める。最初は引用するためや、気になったところを確認のために拾い読みしていたのだが、結局最初からもう一度読んでしまった。30分くらいで書こうと思っていたのに、いろいろなことを挟みながら一日がかりでこれを書いている。二回目を読んで、いろんなところに考えは派生していき、一回目はエピソードなど話の内容に面白がって読んでいたが、二回目はほとんど文学について考える、という視点で読むハメになり、全く違う読み方になった。で、これがまた面白かったというか、久々に使っていない脳味噌の部分を動かして楽しかった。
『巨船ベラス・レトラス』は、つまりそういう一粒で二度美味しい小説である。三回目は、また違う味がするのか、するめ的に味が出てくるのかはわからない。以下、別にミステリではないから犯人がどうとか関係ないけど、広義のネタバレを含む話を書く。
1回目に読んで単純に面白かったのは、まずは差別用語とされている言葉を、冒頭の爆弾事件の被害者たちの動作の表現として使ってるところだ。差別用語を批判されて断筆宣言した筒井だから、意図がよくわかる。このあとにも、登場人物の一人盲目の詩人七尾霊兆に、差別用語に対する過剰な反応が逆に差別を生むと語らせる。
次に面白かったのは、地の文と会話を自由に行き来する語り口だ。比較的最初の方で、七尾が村雨澄子を紹介する場面があまりに見事に切り替わるので、あれっと思って読み直してしまった。映画で回想シーンや、手紙を読むシーンがその回想や語られる場面や時間へと変わるのに似ている。いかにも映画好きの筒井らしい手法だ。こういう書き方は今までもしているのかもしれないが、筒井作品はそれほどたくさん読んでいないので知らない。
それから、数々のモデルとなる人物がいそうな作家たちの登場も興味深い。「主な登場人物」で、「さまざまな文学的実験を試みてきた初老のベテラン作家」と書かれている錣山兼光は、筒井康隆がモデルと思われる。「ホラーを革新的に脱臼させて人気絶頂の作家」伊川谷幻麝、「ミステリーを革新的にとか脱臼させて人気絶頂の作家」根津槍四郎、「革新的な作品で派手に登場した作家」笹川卯三郎などが、誰だかいろいろ考えた。
根津槍四郎は「彼もずいぶんアナーキーな小説を、まああれが推理小説と言えればの話だが、ずいぶん変なものを書いている」とか「長身で上から下まで黒ずくめの服装、ワイシャツも黒で白いのはネクタイのみ、これで冬は黒革の手袋をするのだからまるきり殺し屋である」とか書かれていて、笹川卯三郎は「パンクロックから小説の方へ来た」なんてあると、あの人かと思ったり。名前もみんな変わっているので、アナグラムかと思って書き出してみたが違うようだ。
本筋から外れてちょっとしたエピソードで出てくる作家では、高級クラブでホステスたちにしてやられる川下蒼群や、二人の女優を両脇に引き寄せて海を眺めている流行作家鍋島など、誰だかわかるようにな捩った名前になっている。
笹川卯三郎、根津槍四郎等の主役格の登場人物たちは、誰かを想起させるように書かれているが、やはり彼らはあくまで創作上の人物で、むしろ物語的には筒井康隆の分身なのだろう。例えば根津槍四郎は9.11の同時多発テロを論評した連中全員を茶化した『九・一一えんやこら』の連載打ち切りというエピソードが出てくるが、これは筒井の断筆の話になぞらえているように思える。
そして最後には作者「筒井康隆」が登場し、『満腹亭へようこそ』無断出版事件の話を話し始める。登場した「筒井康隆」によればこれから話すのは「フィクションではなくて実際の出来事」で、「以下わたしの話に出てくる固有名詞は筒井康隆も含めてすべて実在する人物なり会社なりであることを知っておいてほしい」と言う。インターネットで検索したら、すぐに引っかかる、無断出版事件で全くもって恐ろしいことをするなぁと思いながら読む。
こんな風に全編、いろいろな試みに面白がりながら読んだというのが一回目の感想である。
感想を書くにあたって、最初に気になったのはやっぱりタイトルの「ベラス・レトラス」の意味である。「ベラス・レトラス」は作中の作家たちが投稿する前衛的文学を扱う雑誌の名前だが、雑誌を創刊した狭山がブラスコ・イバーネスを好きで、そのオマージュだと書かれている。「あれは大衆作家でしょう。『血と砂』とか書いた」という台詞が出てくるが、僕は知らない。amazonを検索したら、『血と砂』は今なら文庫で読める。
ブラスコ・イバーニェス(の方が一般的な表記のようだ)から、「ベラス・レトラス」を探すのは面倒だと思っていたら、何のことはないググッたら簡単に答が判った。森下一仁の惑星ダルの日常の「非・翡翠日和」というエントリで、やはり「ベラス・レトラス」の意味を調べていて、『スペイン語でした。「bellas letras」(文字通りに訳すると「麗しき文字群」)で、「文学」を表すそうです。』とあった。
「巨船ベラス・レトラス」が文学の隠喩だとは想像のつく話だが、そのまんま「文学」だったとはあまりにストレートすぎて思ってもいなかった。「ベラス・レトラス」という雑誌の話が出てきたところで、雑誌のマークはタイタニック号じゃないかという話が出てきて、「ベラス・レトラス自体も沈没寸前では」と登場人物に言わせているが、「文学自体も沈没寸前だ」と言わせているわけである。
誰も書き下ろし作品を書かない時代だという出版社の裏事情、同人誌に新人は集まらず新人賞に直接応募してくるという作家の卵たちの変容、ノベルスをゴミ扱いしてスッパリ切り捨てたり、インターネットを介して生まれた文学について「文学とは無縁の事象だ」と狭山に一言で片づけさせるのが、一回目に読んだときには単純に業界裏話としての面白さや一刀両断の快感として面白かったのだが、二回目には沈没しそうな文学についての話として切実に感じながら読んだ。
文学という船は沈没しようとしているのか。それに対する考えが書かれないまま終わっているように思ったのが、感想を書こうとして思い返しながら思った不満の一つである。しかし、二回目読み返していると、差別用語に敏感に反応した女優がそうなった経緯について語らせたあと「だから文学はもう終わったなどと言うがなあにまだまだ文学はできるんだがやれないだけの話なんですよ」と七尾に言わせていて、まだ未来があると考えていることなどに気づく。
最後の演劇では、「文学」の沈没を回避する希望として、『バベルの図書館』と文化的ミームに救いを求める台詞を役者に語らせるが、その芝居の台詞に最後結末で「文学」の船首像となってしまう村雨澄子が反発する。この村雨澄子の思いが筒井康隆の本心だと思う。
演劇は途中で、「ここから先の議論の発展は、いずれも何らかの形で文学にかかわってこられた皆様に加わっていただかなければなりますまい。」とオイディプス王に扮した七尾がいうと、舞台は客席と同じフロアー・ラインまで降りてくる。 作中人物が一段階上の作者の前に出現したように、作者筒井康隆が一段階下に登場したように、舞台は客席に降り、この客席には「いずれも何らかの形で文学にかかわってこられた」読者の前に降りてきているのだ。
錣山が自分の作中人物に会ったとき、「わが無意識内の老賢者が彼らもまた文学を形成している存在なのだと教えるために出現させたものなのか」と言わせ、作中人物もまた文学的存在でなければ、文学という船には乗り得ないと考える。これに沿えば、読者もまた文学的存在でなければ、「文学」という船には載り得ない。
文学評論の関係者たちは「空中会館」にいて、「彼らだけでもうどうにもならなくなった文学に関する、もうどうにもならなくなった文学理論に関することを、作者には何のことかわからず彼らを判断停止状態にする批評の技術用語所謂テクニカル・タームとやらを駆使したどん詰まりの議論をしておるのですかな」と錣山に言わせているが、「文学」の船に降りてこないものは船の行方を決めることができない。
澄子が船首像となるのは、「文学」という船を進めるのは、文化的ミームではなく、文学の最先端を行こうと努力している文学者なのだ。「文学」という船を進めるにはそういうものがいなくてはならないと言っているように思った。
[ 『巨船ベラス・レトラス』 筒井康隆 文藝春秋 ]
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『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆 文藝春秋)の感想を書いていたら、一日がかりになってしまった。結局、書いているうちにもう一回読んでしまったし。しかも冗長。本当はもっと整理して簡潔にしたいし、文章も変なところがありそうだが、疲れたので読み返さずにそのままアップした。あとで直すと思う。
映像化についても思うことがあったのだが、たぶん話は『巨船ベラス・レトラス』や文学から離れそうなので、また別に書くことにした。
しかし、一冊でこれだけ楽しめるというのはやっぱり面白い。感想には全然書いてないけど、再読したほかに『文学部唯野教授のサブテキスト』とか、現代思想系の本とか、いろいろ脱線したよ。
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感想を書くのに力が入りすぎて、気がついたら外が明るくなっていた。疲れたけど、頭は完全に覚醒していて眠くない。仕方ないので、コーヒーを淹れて、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(村上 春樹、吉本 由美、都築 響一 文藝春秋)を読む。例の、TITLEで新連載の「するめ映画館」の元となる「東京するめクラブ」の本である。
最初が「魔都、名古屋に挑む」で、名古屋っていつから魔都になったんだと思いながら読む。最初の「食材編」がすごくて思わず、魔都に納得してしまった。
早起きしたわりに(っていうか、寝てないんだろ)眠くないんだけど、頭の芯にしびれるような感じがしてきて、あまり真面目な本を読む気がしない。この緩い感じがちょうどいい。
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金曜日、『デジャヴ』を観てきた。意外にタイムマシン、タイムパラドックスものとしてよくできていて、かつアクションものとしても楽しめて満足だった。結末は若干不満だが、ネタバレになってしまうので最後に書くことにする。
物語はフェリーが港を出ていく場面がじっくりと描かれて始まる。やがてそのフェリーは、自動車に仕掛けられた爆弾により、爆破され多数の死者を出す。デンゼル・ワシントン扮するATF(アルコール、煙草、火器取締局)捜査官ダグ・カーリンが現場にやってくるが、現場に残された破片などからこれが事故ではなく爆破事件であることを見抜く。ダグ・カーリンの才能に目を付けたヴァル・キルマー扮する特別捜査官は捜査の協力を要請する。
この特別捜査班が、実は過去を見ることのできる「タイム・ウィンドウ」という機械を持っていた。最初、ダグ・カーリンは特別な監視システムであると説明を受けるが、監視中にただの録画映像ではないことに気づく。監視対象の女性がこちらの気配を感じていたり、極めつけはダグが画面に向けて当てた光に反応する。ダグ・カーリーは、機械の秘密を説明するように詰め寄り、この映像の向こう側はまだ事件の起こる前の時間であり、「タイム・ウィンドウ」の向こう側の時間軸では被害者の女性もまだ生きていることを知る。ダグ・カーリーは事件のことを「タイム・ウィンドウ」の向こう側に事前に知らせ、爆破事件を未然に防ごうとするのだった。
というわけで、以降の話展開はネタバレになるので差し控えるが、上述の通りタイムマシンものである。それでもって、トニー・スコット監督らしいアクションものでもある。
秀逸なのは、この「タイム・ウィンドウ」により、過去を見るというところである。恩田陸の『ねじの回転』(集英社文庫)では、『シンデレラの靴』を使って過去を再生し、モニターを監視するが、この緊迫した様子を思い出す。『ねじの回転』では緑のモニターに流れるデータを監視するが、「タイム・ウィンドウ」ではもっとヴィジュアルである。全方向自由自在にカメラワークを変えられるモニターで、過去の時間を再生するのだ。そして、この監視できる範囲に限界があるため、その範囲外の地域の再生には、専用のゴーグルを持って追いかける。ゴーグルにつけられたモニターを通すとその先にはその場所の過去の時間軸の出来事が映し出されるのだ。
過去を見るとことのできる移動可能な装置としてゴーグルを使うというのが、うまくアクションにいかされていてなかなかスリリング。ある意味頭の悪すぎる行動もとるのだが、それはこのアクションに持っていくための物語の嘘として許容すべきだろう。とにかくこのアイディアがすごくいい。
SF設定のアクションものというだけでなく、SF的な部分もちゃんとしている。過去を多少修正しても物事は大きく変わらず、結局はフェリーの爆破の方向に歴史は向かっていく。果たしてフェリー爆破は、そしてヒロインを救うことはできるのかというストーリーで引っ張るし、タイム・パラドックス的な小ネタも散りばめられているのだ。
以下に結末についてちょっと書きたいので、観てなくて興味のある方はあとは映画館もしくはビデオでどうぞ。
結末は、書くまでもなくトニー・スコット作品を観ている人なら予測がつくと思うけれど、最後がハリウッド的甘さを感じさせるハッピーエンドである。『トゥルー・ロマンス』のあり得ない結末に激怒して以来、でもトニー・スコットの映画はこうなのだと納得するようになったので、本作ではうーんと思いつつも妥協範囲。
ただ、本当にハッピーエンドなのかというとなんだかね。つまりは『夏への扉』で、ピートが永遠に見捨てられ置き去られて野良猫になってしまった世界があるかもしれない切なさが、そんな可能性の話ではなくてまざまざと見せられるのである。それでも平気でハッピーエンドへと持っていく。この図々しさは、やっぱりトニー・スコットらしい甘さだと思う。
妥協範囲というのは、別の時間軸の存在するタイムマシンものは完全なハッピーエンドはあり得ないことが判っているからだろうか。主人公の時間軸で、ハッピーならばそこで満足すべきなのである。(観客の観てきた時間軸のダグ、可愛そうといって腹を立てるのもありだけど。)
[ 『デジャヴ』 監督トニー・スコット 出演デンゼル・ワシントン、ヴァル・キルマー、ポーラ・パットン、ジム・カヴィーゼル MOVIXさいたま ]
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amazonで買った『LOVES』(D.H.Y)が届く。さっそくB.G.M.に流しながら。
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『LOVES』(D.H.Y)の曲はいずれもよかったが、「ここでキスして。」を聴いたときにはゾクッとして鳥肌が立った。
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ダイヤモンドを巡る血の争い。数々の問題をテーマに折り込みながら、巨大なダイヤモンドを巡るアクションを展開する。緊迫感溢れる感動のエンターテイメントになりそうなのだが、何故か退屈だった。
冒頭のダイヤの密売人ディカプリオの交渉シーン、ジャイモン・フンスーの漁師の村が反政府軍の襲撃にあうシーン、いずれも物語の主人公だから冒頭から死ぬはずがないのだが、死とギリギリの線を行く物語に緊張感を誘う。だが、その冒頭を過ぎるとあとは主人公たちの危機が全然リアルではなくなってしまう。
弾幕の中を走り抜けたり、軍の攻撃の中で逃げる場面が多々あるのだが、もう弾が当たらない方が不思議な場面を傷一つ負わずに抜けきると、緊迫するはずの場面が全然緊迫しなくなる。銃声にどきっとしたあと、一瞬あとにはもう眠くなるのだ。
反政府軍にさらわれたジャイモン・フンスー扮する漁師の家族への深い愛を見るうち、金儲けだけが目的だったディカプリオ扮する密売人がいつしか変わっていく。その背景となるディカプリオの過去が会話などで出てくるだけだからだろうか、変わっていくところに共感を得られない。ついには感動的であるはずの結末も共感を得られないまま終わってしまった。
[ 『ブラッド・ダイヤモンド』 監督エドワード・ズウィック 出演レオナルド・ディカプリオ、ジャイモン・フンスー、ジェニファー・コネリー 新宿ミラノ ]
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評判の『陰日向に咲く』(劇団ひとり 幻冬舎)を読む。そんなに話題になるほど面白いのだろうかという疑問を多少感じながら読んだ。結果はなるほど、評判になるだけのことはあると思った。大して分量もないので、迷っているくらいなら読んでみてもいいんじゃないかと思う。読みながらどんな風に感じたかをもう少し詳しく書こう。
この本は、目次を見ると判るが、5つの短編から構成される。最初の一編「道草」を読み始めて、ああこんな感じなのか、とあっさりした語り口に思う。ちょっとしたオチになるほどねと、比較的冷静に読み終え、そこそこ面白いがそんなに話題になるほどのものではないと思った。
そもそもなんで小説なんて書いたのだろうと思ったが、略歴中にある『コンビ「スープレックス」を結成するが2000年解散。ピン芸人として再出発後、総勢十名のキャラクターを演じる一人芝居で注目される。』というのになんとなく納得した。
実は劇団ひとりのことはバラエティなどで見かけてはいるが、実際の芸人としての芸は見たことがなかった。元々漫才等の番組をあまり見ないのもあるが、ある程度売れ出すと芸人もタレントとしての活動の方が多くなり、元々の活動を見る機会が減るように思う。
それで彼の芸については全く知らないので、芸を見てそう思うかは判らないのだが、「ピン芸人として、総勢十名のキャラクターを演じる一人芝居」というのが、キャラクタの人生の一部を切り出したものだとしたら、それを小説という別の形式で描いたものがこの小説なのかもしれないと思った。小説という形態を活かして、普段の一人芝居とは違う描き方、一人芝居では描けないものを描いているのではないかと思うのだ。
それ自体おかしみのあるキャラと、オチがつく結末から、そう考えたのだった。
次の「拝啓、僕のアイドル様」で、また別のキャラの別の話を読むことになるが、途中おやっと思うところがあり、ちょっと感心する。「道草」で出てきたキャラが、ちょっと関連するいわば連作短編になっていたからだ。なるほどこの調子で、主人公が次の話の登場人物の一人として出てくるような作りになっているのだろうかと面白みを感じる。
「ピンボケの私」では、前作の主人公の別の側面を読めることを期待しながら読んでいくが、たぶんこの人が再び出てくるのではないかと期待していたのとはちょっと違っていた。それでもやはり前の二編と緩く絡み合う話に、面白く読んでいた。そして突然、ニヤリと思わせる捻りがあり、思わず前のページに戻る。
単なるオチの一種なのだが、話もちょっといい話風で面白いと思う。
「Over run」も同様だが、今までのようなキャラの繋がりがほとんどない。最後、「鳴き砂を歩く犬」ではもう全然キャラの繋がりはなくなってしまう……と思っていたら、最後に最初の一編からすべての話が繋がって終わった。ここで初めて、うまいなぁと思った。
一編ずつは短い話なので、立ち読みで一編目など読めてしまうだろう。まあこんなもんかとそこでやめてしまうと面白さは判らない。とりあえず、二編は読んでみるべきである。
この面白さはなんなのだろうと考えて思った結論。『陰日向に咲く』は、一言でいうならば「殺人事件の起こらない叙述ミステリ」といっておきたい。
[ 『陰日向に咲く』 劇団ひとり 幻冬舎 ]
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月末にかけてちょっと忙しくなり、25時少し前に帰宅。年度の変わりはいつものことだが。
『12番目のカード』(ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋)を読み始めた。相変わらず安定した質に安心して楽しめる。
感想を書きそびれているのが、『天使と悪魔』。なんとか記憶が新しいうちに書いておきたい。
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体調不調。単なる寝不足かもしれないが。午前中は休息、午後から仕事へ。結局今日も快速のない時間となり、各停でちんたら帰る。家に着いたらすでに24時過ぎていた。こうなると何もする時間がない。ドラマを1本見て、DVDレコーダーの空き領域を確保したくらい。
読書は引き続き、『12番目のカード』(ジェフリー・ディーヴァー 文藝春秋)。5分の2くらい読んだが、ここまでは快調。やっぱり面白い。
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U5さんのこらないのエントリ「耐えられないもの」が面白い。文末に、「皆さんの、どうしてもダメなモノ、コト、ヒトって、なんでしょう。」って書かれちゃったら、思わず書かずにいられない。
ちなみにこれって、システム化されてないトラックバックだよね。システム化されたトラックバックはいろんな意味で問題があるけど、こういうことが楽しいからトラックバックっていう仕掛けが生まれたんだろうなとふと思った。(この一行だけを書いて終えるストイックな日記が書けたら、一日五ドルと十ドルのウェブみたいでかっこいいなと思ったけど、僕には無理。)
話は戻って、どうしてもダメなモノ、コト、ヒト。
U5さんのエントリにあった「モチベーション」「マター」とか、気持ちは分かるけど僕はそんなに恥ずかしくない。前者は日本語だと「動機」なのでむしろ「モチベーション」の方が使いやすい。「マター」は「マター」としかいいようのないシチュエーションがあって、使っている気がするので違和感を感じないのだが、今例を挙げようと思うと思いつかない。
それで思ったのは、単にそれは「誰々さんの担当」っていうところを「誰々さんマター」とかいうと恥ずかしいかもしれない。
この話の延長で、ちょっと書いておきたいと思ったのは、「イエッス」である。外資系で実際にアメリカ出張などが長い人のいる部署とかで使われたりするのだが、「そう、そうだよね」という肯定の時に「イエッス」というの。これ照れずに言えるとカッコイイ。初めて聴くと恥ずかしい。なんていうの、エロカッコイイじゃなくて、ハズカッコイイ。議論が白熱するに連れ「イエッス」が連発されると、結構笑いを誘いつつ、かっこいいのよね。でも劇場で芝居を観ているときに感動するのに、そのテレビ中継をお茶の間でみると恥ずかしいような感覚に近いモノがある。
恥ずかしい単語っていうと、「コンビニ」は特に感じたことないけど、確かに短縮するのは恥ずかしい。「コンビニ」が恥ずかしいとあまり思わないのは、もう「コンビニ」が一つの単語になっているからだと思う。「パソコン」だって恥ずかしいと思う人って少ないよね。でも今は普通に使うけど、元々は「パーソナルコンピュータ」の略なわけで、初めて聞いたときには恥ずかしかった。「戦メリ」とか「時かけ」とかも恥ずかしかったけど、いまやそれが一つの成句のようになっちゃったからあまり恥ずかしいと思わない。当時はすごくいやだったけど。「今そこ」ってのがあって、トム・クランシーの『今、そこにある危機』の略だったのだけど「今そこ」じゃなんだかわからんじゃないかと思った記憶がある。
最近、こらない絡みで『カラマーゾフの兄弟』の話を書いたけど、そういえば「ドストエフスキー」を「ドストさん」とかいう人がいて、これは恥ずかしいというよりは理解できない。
耐えられないモノという話でいうと、ベストセラーになっている本を買うのが耐えられないくらい恥ずかしい。ベストセラーになっている本なんか読まないとかいう人などいるけど、僕は別にそうは思わない。面白ければベストセラーだろうが絶版になろうが関係ない。むしろ面白い本がベストセラーになるのは、それって当たり前だろうと思うのだが、面白い本がベストセラーになることは稀なので、疑う気持ちも分かる。ただ、ベストセラーの本を買うのは恥ずかしい。エロ本をレジに持っていくより恥ずかしい。
こういう恥ずかしさって、何で恥ずかしいのか考えるとそれってみんなトラウマなんじゃないかと思う。あれが恥ずかしいとかこれが恥ずかしいとかいった時点で、いろんなことがバレバレではないのかな。というわけで、墓穴を掘る前に(既に掘ってるかもしれないけど)終わりにしておこう。
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7時起床。昨夜大吟醸を飲みながらWebを見たりしていたはずなのだが、気がついたらベッドにいた。
昼間はサイトのデータの更新など。
2005年のリニューアル前のうたかたの日々は、古いデザインのまま公開しているが、データの保存形式が違うから今のデザインに変えられないのである。そのうちに思いながら2年経ってしまったわけで、最近地道に過去データを今の形式に直している。一括変換できるような機械的な作業ならさっさとやってしまうのだが、ファイルを分割しなくてはならなかったり、機械的な作業だけではない部分があるためについ億劫になる。
とりあえず、2005年までは今の形式にあわせた。
夜、飲みに行く。
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12時起床。6時、9時と目を覚ましたあと再び眠りに落ちていた。たくさん面白い夢も見た。
録画しておいた「ゲゲゲの鬼太郎」を見て、夕方出かける。夕方から久々にオフ会。24時過ぎに帰宅。
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7時起床。過去日記のデータ形式を変更しながら、日記を読み返す。2004年の年末あたりを読み、あまりにすごい生活パターンに改めて驚く。良く躰が持っていたものだ。同時に、精神的にダメージを受けていくのもありありと判る。この頃、仕事のリーダーが鬱になったのだ。それを引き継いで仕事が完了するまでにどんどん壊れている。
過去日記で触れていた『空腹の技法』(ポール・オースター 新潮文庫)を読みたくなり、拾い読みする。
昨日は別の件で思い出して、『ちくま日本文学全集 中勘助』から『銀の匙』を拾い読みした。
『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆 文藝春秋)で文学ついて考えた影響もあるかもしれない。最近、ふと純文学系のものを読み返したくなったりする。
連休は今日で一旦終了し、明日、明後日は仕事。
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『ちくま日本文学全集 中島敦』(amazon在庫なし)で、「かめれおん日記」を拾い読みする。全集も持っているが文庫でお手軽に済ます。全集と違って、新字・現代かなづかいに改められているが。
『打ちのめされるようなすごい本』(米原万里 文藝春秋)を読み始める。週刊文春に連載されていた「私の読書日記」と1995年〜2005年に書かれたほぼすべての書評を収録している。書評、ブックガイドの類は芋蔓式に読みたい本が増殖していき、またそれぞれに本のエッセンスが凝縮されているので一気に読み通すのは難しいと思い、他の本との並行読みの一冊として読み始めた。
「私の読書日記」の連載5回分を読んだだけで、言及された気になる本にチェックする付箋が一杯になってしまった。ここ数日、読む本についても絞りはじめようと考えていたのに、なんとまあ具合の悪いタイミングで手に取ってしまったことか。しかし、読書の選択について、考えるヒントにはなるので、これはこれでよかったのかもしれない。
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『ダ・ヴィンチ・コード』に先立つ、ロバート・ラングドンシリーズの1作目である。『ダ・ヴィンチ・コード』の感想については、二時間ドラマ風に「宗教象徴学探偵ラングトン教授の事件簿2 ルーブル美術館殺人事件 ルーブル美術館にウィトルウィウス的人体図を模して死んだ館長の死の謎は? 美人暗号監督官との逃避行!」とか酷いことを書いたが、この『天使と悪魔』の方が格段に面白かった。
物語はラングドンの元に朝の5時にかかってきた突然の電話から始まる。その電話でラングドンは、惨殺された男の死体にイルミナティという秘密結社の伝説の紋章が胸に焼き印されていることを知る。宗教象徴学者の立場で紋章の確認を依頼されたラングドンは、殺された博士は反物質を研究しており、その反物質が盗まれていることを知る。反物質が時限爆弾の役割を果たして、ヴァチカンを壊滅的に破壊するまでの秒読みが開始される。巻き込まれて後に引けなくなったラングドンと殺された博士の娘が行動を共にして爆破を回避しようとする。一方で、ヴァチカンでは次期ローマ教皇の選挙が行われていたが、その候補者4人が誘拐されていた。イルミナティは、教皇候補を順番に殺し、イルミナティの紋章を焼き印し、科学者たちへの復讐を果たそうとする。果たしてラングドンはイルミナティの復讐の地を見つけだし、爆破を回避できるのか。
このあらすじでわかるように、『天使と悪魔』も二時間ドラマタイトルをつけられるような『ダ・ヴィンチ・コード』と似たような構成である。謎はイルミナティ、相棒は博士の娘、追っ手の代わりに爆破と教皇候補暗殺までのタイムリミットとの追いかけっこになり、観光案内はヴァチカンを中心にしたローマに変わっているが、読み始めてすぐに同じパターンだと思った。
ただ『ダ・ヴィンチ・コード』より格段に面白いと思ったのは、謎解きがローマの彫像など実際にあるものになっている。『ダ・ヴィンチ・コード』がどうしても物足りなくなってしまうのは、結局謎は最後まで現代の人物の作った、ちょっとしたパズルの連続という感じがしてしまうところだった。いわば「世界をまたにかけた宝探しゲーム」である。その点、『天使と悪魔』の方は何百年か隠されていた謎が今明かされるという面白さがあった。
もうひとつ面白かったポイントは、犯人は予想がついてしまうのだが、反物質の爆破の回避やラングドンの絶体絶命のピンチなどがどうやって解決されるのか想像がつかないことである。ほとんど漫画のような展開で、思わず笑ってしまうかもしれないが、それでも「やってくれるなぁ」と思わせてくれた。
『天使と悪魔』も映画化されるようだが、謎を解く鍵となる実際の彫刻や教会が見られると面白いだろうと思う。ちなみにトム・ハンクスの出演料は5000万ドル(約59億円)らしい。本書のラングドンの絶体絶命のピンチを実演するとかいうならわかるけど(無理だって)、なんか高すぎないか。59億円あったら、何本映画を撮れるだろう。
[ 『天使と悪魔(上)』 『天使と悪魔(中)』 『天使と悪魔(下)』 ダン・ブラウン 角川文庫 ]
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映画
『アンフェア the movie』
『蟲師』
『ラストキング・オブ・スコットランド』
『ブラッド・ダイヤモンド』
『デジャヴ』
読書
『ブラバン』(津原泰水 バジリコ)
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(桜庭一樹 富士見ミステリー文庫)
『天使と悪魔 上・中・下』(ダン・ブラウン 角川文庫)
『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆 文藝春秋)
『陰日向に咲く』(劇団ひとり 幻冬舎)
テレビ
「エコエコアザラク〜眼〜」
「セクシーボイスアンドロボ」
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そろそろ「うたかたの日々」を終わりにしようかとふと思った。ふと思ったというと、思いつきみたいだけれど、むしろここしばらくずっと考えてきたことが背景にあった上で、最近読んだ何冊の本やちょっとした出来事が重なって考えたことである。
日記をやめるということではない。行き当たりばったりな、はかなくも消えていく日々を過ごすのは、そろそろ終わりにするべきなんじゃないかと思った。
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