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2007年4月前半
エイプリルフールということで、各サイトで嘘ページが溢れている。インターネットが成熟してきてもそういう遊び心は残っていて欲しいと思う反面、なんだかなぁと思ったり。
テレビをつけたら、今年最初の真夏日だそうである。なんだかエイプリルフールのようなニュースである。
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『赤朽葉家の伝説』は鳥取県紅緑村の旧家、製鉄業で財を成した赤朽葉家の盛衰を描いた、二段組300ページの長篇である。
全体は三部から成る。第一部は、「辺境の人」に置き忘れられた幼子がのちに赤朽葉家に輿入れし、「千里眼奥様」と呼ばれることになる赤朽葉万葉の人生を中心に描いた戦後から復興していく時代の物語。第二部は、万葉の娘でレディースのリーダーから一転少女漫画家として一世を風靡する赤朽葉毛鞠のそして昭和の後半の物語。第三部は、万葉の孫であり毛鞠の娘である瞳子の現代の、そして現代から再び過去を読み解く物語になっている。
これがなかなか面白かった。『少女七竈と七人の可愛そうな大人』を読んだときに、桜庭一樹の文体というか言い回しには、ちょっと引っかかるものがあると感じたのだが、本作ではあまり気にならずに読めた。
まだ二作しか読んでいないので判らないが、『少女七竈と七人の可愛そうな大人』では、耽美な雰囲気を醸し出すために、かなり独特な言葉遣いを選んでいたのかもしれない。
それに多少気になったとしても、そのまま読み通せるだけのパワーがあった。
桜庭一樹のプロフィールは知らないが、個々のエピソードは創作や脚色がたくさんはいっているだろうが、時代背景とか想い出とか、桜庭一樹の自伝的要素もたっぷりあるのではないかと思う。東野圭吾の『白夜行』が、主役があらゆるコンピュータ関係の犯罪を手がけていくことで、個人的コンピュータ犯罪史みたいな物語になっていたのが思い出される。そういうところが面白いのは、自分が近い時代を生きていて、描かれる時代のエピソードが自分の経験と交錯するからなんだろう。
愕然とするが、自分の生きていたのは(と既に過去形になってしまうのも愕然とするが)、語り手瞳子の時代ではなく、瞳子の母親毛鞠の時代なのだ。
そういう意味では、昭和を知っている読者の方が面白いのかもしれない。(と書いていると、昭和の遺物になったような気がするが。)
以下、広義でのネタバレになるので、未読の方は面白いという言葉を信じて、騙されたと思って本編を読んでいただきたい。あとは、読んだ方を対象に書こうと思う。
広義でのネタバレとここでいっているのは、例えば、本格推理なら犯人やトリックをばらすのではなく、最後にどんでん返しがあることをばらすことである。どんでん返しは、終わったと思ったあとにあるから驚きなので、最初からどんでん返しがあると聞かされてしまうと、その驚きは半減する。
この小説は、構造そのものというか、目次からして仕掛けになっていると思うのである。だからそれを書くことはすなわちネタバレということになる。
まず、まるで現代史のようなこの物語はミステリなのか。対象となるのが架空の旧家であり、そこに万葉が未来を幻視するエピソードなどを交えて描き出すという意味で、広義のミステリということはできる。だが、むしろ目次を見たとき、第三部のタイトルが「殺人者」となっていることで、三部で描かれる瞳子の物語がこの物語をミステリに転換させるのだろうと思うだろう。それは単なる僕の早合点ではなく、そこが既にトリックなのだと思う。
もちろん、語り手が瞳子であることは最初から明らかなのだから、賢明なる読者は既に第一部からミステリとして意識し、さり気ない表現の裏に隠れた真実を探し出そうと目を皿のようにして読んでいたのかもしれないが。
だから第三部で殺人者が瞳子を表す言葉ではなかったと判った瞬間に、これまでの長い物語は全く逆の意味を持つ。その意味が明らかになった、次の章、第二部の第二章のタイトルは「Whom did she murder?」である。そうなのだ、タイトルを見た瞬間に、これはフーダニットでもなければ、ホワイダニットでもない。フームダニットって?
変格ミステリというのか、犯人を探す代わりに、被害者探しとか、探偵探しとか、そういう話はアイディアとして思いつくが、実際に物語として成立させるとなると難しい。しかし、桜庭一樹は長い長い赤朽葉家の歴史を描いていると思わせて、まんまと成立させてしまったのだ。
この時点で、僕は結構満足した。このことに気づいたときは、驚きの瞬間だった。あとは謎ときだが、それはそれほど重要ではない気がした。しかも、物語の構造が判った瞬間に、毛鞠の二人一役などのトリックかもしれないと思われるエピソードがわらわらと甦ってきた。先にこの構造に気づいてしまった人より、第三部を読むまで何も気づかなかった人の方が幸せである。
だが一方で、この物語はトリックも謎解きも不要な、そんなものがなくても十分面白い物語だと思った。この感覚って、『シックス・センス』を観たときと似ていると思った。『シックス・センス』も大きなオチが最後について確かに驚くのだが、むしろそんなオチがない方がよかったんじゃないかと思う。
『赤朽葉家の伝説』も、この仕掛けが判った瞬間には面白いと思ったものの、読み進むにつれ、あとは謎ときと真相が判って終わるだけなのか、それなら別にこんな仕掛けはいらなかったんじゃないか。単に現代史的物語でよかったのではないかとも思った。
しかし最後、仕掛けがあっても単に真相が判って終わるというよりは、赤朽葉家の物語として幕を閉じる。騙されたと思って何も聞かずに読め(騙されると二度美味しい)といえる面白い物語だった。
[ 『赤朽葉家の伝説』(桜庭一樹 東京創元社) ]
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『叫』を少し前に観た。
予告を観る限り、ホラーとしか思えないのに、何故か「黒沢清初の本格ミステリー」という惹句が使われていて、もしかして本当に本格ミステリーなのだろうかと思って観に行ったが、やっぱりホラーだと思う。ミステリーというとしても、少なくとも、「本格」は着かないと思う。ミステリーさえホラーといって売っていたほどのホラーブームは終わりを告げ、これからはまた別のジャンルで売る時代になったのかもしれない。まあ、それは宣伝戦略なので映画とは関係ない話だ。
いつもながらの黒沢節なのだが、いつにもまして(それは自分が疲れていただけかもしれないのだが)眠気を誘われてしまったのだが、葉月里緒奈が現れて叫びを上げる度に、ただそれだけなのに背筋がぞわっとくるのが凄かった。葉月里緒奈の姿が怖いとか、登場の仕方が怖いとか、存在が怖いとかいうのではなくて、−−いや、怖いけどその瞬間にではなくて、叫びを聞いているうちにある限界点を超えた瞬間にぞわっとくるのである。
黒沢清の映画ではいつも不条理な出来事が起こり、説明不可能なまま事実としてだけ残る出来事があるが、『叫』では基本的にすべての不条理な出来事は解決する。そこが「本格ミステリー」という所以なのかもしれないが、でも葉月里緒奈の赤い服の女の関わりだけは説明がつかなくて、ホラーとして受け入れるしかない。
ホラー映画の常套として、元凶となる霊やら怪物やらが最後に実はまだいて恐怖は終わっていないというカットが入って終わるが、『叫』の最後はそれがさらに壮大なスケールで終わる。
このラストシーンを思い出すと、『叫』は個人の体験の恐怖ではなくて、人類全体への恐怖のように思えてくる。例えば地球温暖化で人類が滅亡するとか、あるいは世紀末に流行った恐怖の大王とか、大きすぎて時間的にも長すぎて、実感がわからない恐怖。
ホラー映画って、普通は生理的な恐怖に満ちた映画だと思うのだが、理性的にならないと怖くなってこないそんなゆるやかな恐怖でできている映画だ。ただ、時折現れる葉月里緒奈の演じる赤い服の女の叫び声だけが生理的な恐怖をかき立てる。
ちなみに、聴いているとぞわっとくる叫び声は、葉月里緒奈の声ではなかった。ラストクレジットを見ていたら、叫び声専任の人の名前がクレジットされていた。
[ 『叫』 監督黒沢清 出演役所広司 シネセゾン渋谷 ]
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録画したはずの「プロフェッショナル 仕事の流儀/映画を創る 〜宮崎駿・創作の秘密〜」を見ようとしたら、録画されていたのは違う回だった。正規放送を見逃したので、再放送を録ったつもりだったのだが、確認が足りなかった。だけど、これで一杯になったHDが少し空いたと思った。
また春の連ドラが始まる。今度は観るものを絞らないと。
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2004年に放送された連続ドラマ「エコエコアザラク」に手を加えたディレクターズカット版『エコエコアザラク〜眼〜 DC版』を先々月からチャンネルNECOで1月に4話ずつ、3ヶ月にに亘って放送している。4話一度に放送するのに、続きは翌月というプログラムなので、放送分を見ると1ヶ月ストレスを感じそうである。そこで録画して最後の放送を待っていた。
いよいよ、今月が最後の9話から13話の放送なので、そろそろ見ようかと思いとりあえず第1話を観た。
最初の放送時に途中まで観ていたと思っていたのだが、佐伯日菜子の出ていたテレビシリーズと勘違いしていた。全く観たことのないシリーズだった。全然知らなかったのは、2004年頃は家に帰れない日が続くような酷い生活をしていた時期なので知らなかったのだろう。そんなわけで楽しみだ。
『エコエコアザラク』は結構好きで、テレビシリーズは佐伯日菜子のシリーズを途中までしか観られなかったのだが、映画は近野成美が主演していた最新の映画を見逃した以外は全部観ている。でも一番好きなのは、最近だと稲垣吾郎の金田一シリーズや「アンフェア」の脚本を書いている佐藤嗣麻子が監督をしている一作目の『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』である。このときの脇役で出てきた菅野美穂がまた最高に良い。
『エコエコアザラク』と聞くと観たくなってしまうのは、この映画が良かったからかもしれない。
そういえば、『富江』も新作ができると必ず観てしまうのだが、一作目の『富江』も菅野美穂が出ていて異彩を放っているのだった。こちらは脇役ではなく、富江自身を演じていて無茶苦茶怖い。
菅野美穂にはホラーの神様がついているに違いない。
あれ、話がそれた。タイトルの「エコエコアザラーク…」と書いたのは、『エコエコアザラク〜眼〜 DC版』の黒井ミサ、上野なつひが唱える呪文では「エコエコアザラーク」と伸ばしていたので。それがいいというのではなくて、どちらかというと違和感があったのだけど、妙に印象に残ったので。それだけなんだけど。
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『パフューム −ある人殺しの物語−』を少し前に観た。
『香水 ある人殺しの物語』の映画化である。映画は決して悪くはないのだけれど、原作を面白く読んだ立場からすると、主人公ジャン=バティスト・グルヌイユの成長する過程がちょっと駆け足に過ぎる気がある。いや、2時間ほどの映画に収めるには仕方のないことであり、そのわりには原作で描かれた成長から、香水への目覚め、そして究極の香水を求める話とほとんどのストーリーを追っている。しかしそれらを追うために、彼のそもそもの生まれの不幸、匂いに関する特殊な能力と匂いのない躰についての描かれ方が弱いのだ。
映画の予告を初めて観たとき、まだ原作を読む前の話だが、匂いに取り憑かれた殺人鬼のセンセーショナルな物語かのように印象を受けたのだが、映画本編もグルヌイユはややそういう印象が残っていた。冒頭に牢に入れられ処刑を迎えるシーンから始まるのもその印象を強めている。
原作では、匂いをかぎ分けることに対し、異常なまでの才能を示した彼の成長の過程、やがて香水の調合師となり、その匂いを抽出するためにかける執念が丹念に描かれている。その背景からすると、問題の事件−−少女の匂いを保存するための殺人−−は、究極の匂いを保存するために避けられない出来事でしかなくて、決して残酷な連続殺人ではないようにさえ思えてしまう。
動機がなんであれ、目的が何であれ、いや動機も目的も正統ではないのだから、殺人が許される訳はない。だが、やはりここで描かれているのは殺人鬼の話ではなく、特異な才能を持って生まれた男の数奇な運命の物語なのだ。そして、その中で彼はたまたま人殺しをしてしまった。
映画では、この辺が弱く感じられた。原作をどう映画化しているかは除いて、映画単体で観ても、グルヌイユの殺人の動機がよく判らないような気がする。
判らないといえば、ラストの究極の匂いに群衆がグルヌイユを愛し、さらにその場にいる者達と愛を交わし始めてしまうという壮大なモブシーンは、映画を観ていて理解できたのだろうか。衝撃的ではあるが、意味が判らないのではないかと思うが、どうなのだろう。
原作ではグルヌイユの匂いに対する特異な能力を描く中で、匂いのもつ様々な効果についても描かれることになり、人の行動がどれだけ匂いによって左右されるのか描かれている。その匂いのもつ力を知ってこそ、このクライマックスでの人々の変わり様が理解できる。グルヌイユの描写が少ない分、匂いの持つ力についてもだいぶ描かれ方が少なかった。
ただこのシーンは素晴らしかった。群衆が服を脱ぎ、抱き合い、キスをし、愛を交わすというシーンは、肌色のイトミミズのように人が組んずほぐれつ絡み合う映像として、想像するだけでも気持ち悪いと思っていた。文章だから描けるシーンだと思ったのだが、それを見事に映像として見せてしまった。その通りのシーンでありながら、いやらしくもなく、むしろ絵画のようなできばえだった。
原作を何人もの監督が映画化権を争ったという逸話があるが、誰しもこのラストシーンを映像にしたかったのではないかと思った。
[ 『パフューム −ある人殺しの物語−』 監督トム・ティクヴァ 出演ベン・ウィショー 新宿ミラノ ]
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「体内時計25時」の「かっこう、と天才バカボンは言った。」という記事で、『村上春樹風に語るスレジェネレーター』というのを知った。
「ずる休み」と入れてみたら、ちょっと「そうだ、村上春樹さんに聞いてみよう」みたいな感じがした。エッチ系が多いので、ちょっと考えて「ジョニー」と入れてみたら、そのものになってしまった。
村上春樹風に語るというよりは、単語の入れ替えだけなので、文章がいろいろ変わるようなジェネレーターの開発を期待する。
ところで、森見登美彦の『太陽の塔』で、突然「ジョニー」について語りだされたときには、何だろうと思った。文脈から、そういえばあれを「ジョニー」と呼ぶって話をどこかで読んだと思い出すまでちょっと時間がかかった。そのどこかで読んだのも、たぶん1ヶ月以内とかかなり最近の出来事で、息子とかジュニアとかは知っていたが、ジョニーというのは初めて聞いたと思っていた。何の説明もなく、もちろん説明するようなことじゃないが、ごく当たり前のように森見登美彦が書いているのは、それだけ一般的になっているのだろうか。これも世代の差なのだろうか。
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『村上春樹風に語るスレジェネレーター』について、「文章がいろいろ変わるようなジェネレーターの開発を期待する」と書いたけれど、大阪弁化フィルタみたいなものを思い浮かべていたのだ。
大阪弁化フィルタは、方言変換Proxyサーバで、博多弁などの方言や、現代思想文、丸谷風文章などへの変換も実現している。基本的には辞書を持っていて、真面目に単語や述語部分を変換しているようだ。
同様にして、あらゆる文章を村上春樹風にしてしまう、エセ村上春樹変換フィルタもできるんじゃないか。
すぐに思いつくのは、パラグラフの最後に「やれやれ。」とつけるとか、入れるタイミングが難しいが、文頭に「オーケー。」とつけるとか、主語をすべて「ぼく」にするとか。あと、飲食店関係は「うさぎ亭」とか「きつね亭」とか、ホテルは「いるかホテル」とかに置き換えてしまうとか。「『オズの魔法使い』にでてくる竜巻のように」のようなメタファーを挿入するとか、「とても」とか「非常に」は「春の熊くらい」に置き換えるとか。
なんてことを眠りにつく間ずっと考えていた。やれやれ。
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「やっぱり本とか音楽とか…」の記事「Nippon 2007」で知ったのだが、Nippon 2007が開催されるのだそうだ。全く知らなかった。
そういえば、「SFマガジン」を読まなくなって久しい。購入をやめてからもしばらくは、本屋で毎号確認していたと思うが、気がついてみれば立ち読みすらしていない。ワールドコン開催も知らずにいたとは、自覚はなかったけれど、いつの間にかSFから遠く離れてしまったのだなと思った。
それでも、SF大会にも出たことがないが、日本でしかも横浜というごく近い場所でワールドコンが開かれると聞くと、行ってみたくなる。
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『エコエコアザラク〜眼〜 DC版』の2話から4話を観る。
昨日、1話を観たばかりなのに、混乱する。基本的に1話完結になっているのに、それと同時に3本くらいの話が並行している。いや違うのか、複数の話が同時並行で進み、そのうちのどれかが各回に完結しているというのか。ものすごい下手な説明だ。
1話は1話で完結しているのだが、1話で出てきたモデルの女の子の話が、そのままになっていたと思ったら4話で完結する。他にも女子高生が体育館の倉庫の奇妙なシミをじっと見つめているエピソードがあるのだが、その女の子は話の途中で退場、別の女子高生のエピソードになる。でもって、5話の予告で、どうもその奇妙なシミの話の続きがある様子。
この番組、最初の放送時には毎週放送だったのだろうか。なんだか、凝っているのだけど、判りづらくないか。
『ブラバン』(津原泰水 バジリコ)を読了。ものすごく面白かった。感想はのちほど。今日は書けなかった。
続けて、『天使と悪魔(上)』(ダン・ブラウン 角川文庫)を読み始める。『ダ・ヴィンチ・コード』のラングドンシリーズ1作目。内容以前に、寝ているところを電話でたたき起こされ、紋章の焼き印を押された死体の写真をFAXで受け取り、マッハ15の飛行機でジュネーブに飛ぶ。
「息もつかせぬスピーディな展開」なんだろうけど、荒唐無稽でアホらしく感じてしまうのは、『ブラバン』みたいな地味で等身大の現実で書き込まれていてしかも面白い小説を読んだあとだからなのか。
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『エコエコアザラク〜眼〜 DC版』の5話から8話を観る。
いくつかの話が並行で走るという展開は好きなのだが、どうもわかりにくい気がするのは、各話完結にしようとしているせいかもしれない。それぞれの話が結びつき始めて面白くなってくる。しかし、7話と8話の演出が奇をてらっていて逆につまらなかった。7話は活弁士が出てきて、語りが入る。8話は文芸調というのか、登場人物の一人の少女の独白を多用したり、余韻を残すカットが多い。最近だと「ケータイ刑事」シリーズなどでよくやっているけど、『エコエコアザラク』でやるとギャグでもコメディでもないのでかなり辛い。
読書は、『天使と悪魔(上)』(ダン・ブラウン 角川文庫)の続き。
物語はラングドンの意思に関わらず巻き込まれ型で展開し、舞台はヴァチカンへ。歴史がらみの蘊蓄と旅情ミステリという『ダ・ヴィンチ・コード』と見事に同じパターンである。違うのは、犯人と思われていないことくらいか。
『ブラバン』(津原泰水 バジリコ)の感想は今日も書けず終い。明日は久々に会う友人たちとの飲み会があるので、『ブラバン』の感想は週末になりそう。
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「父上、私は蒼き狼として、肉果て、時尽きるまで、腹一杯食えるのでしょうか」と、言ったとか言わないとか。いや言わない。
何の話かというと、大学時代の友人たちと渋谷でジンギスカンを食べた。腹一杯食べた。うまかったので、追加を繰り返し、時間も4時間くらい長居した。そろそろ帰るかと言ってからが長かったようだ。よく、店の人は追い出しに来なかったもんだ。
メンツは、Mが急遽仕事で来られなくなったというので、合計4人。店に着く手前で納富を見かけて、店の外で立ち話。最近の話題は、mixiのコミュでもすでに話している『赤朽葉家の伝説』で、会うなりその話。コミュではネタバレしないように遠回しないい方で対話していたので、会って話してすっきりした。
店に入ってしばらくして、Oも現れる。Oと会うのは数年ぶり。先日、『0093 女王陛下の草刈正雄』のエキストラで納富とMとOは会っていたが、僕は都合がつかなくて参加できなかったのだ。そういえば、Mとももう2年以上会っていないかもしれない。
最後に、篠崎誠が遅れてくる。『0093 女王陛下の草刈正雄』のクレジットにエキストラで参加してくれた人の名前を全部入れるとか、ちょうど今、そんなことをやっているらしい。30分版では、冒頭宇宙人が出てくるが、全くのネタだと思っていたら、本編で実はかなり出てくるとか、裏話をいろいろ聞く。次の企画の話など聞くうちに、途中から妄想系馬鹿話に発展して、たぶん最後の二時間くらいはそんな馬鹿話をずっと話していた。
23時を過ぎているので、素直に解散。というか、納富は戻ってから仕事だとか。
読書は、『天使と悪魔(中)』(ダン・ブラウン 角川文庫)。上巻で秒読みに入った危機に、どうやって対処していくのか。ラングドンが博学な知識を使って謎を解いていくのだろうが、上巻ではパッとしなかった。中巻でいよいよラングドンの活躍が期待される。
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小心者の杖日記で、ムネカタさんが「What are you doing?」に答えるだけの「twitter」を書かれてたので、早速twitter rojionのアカウントを作ってみた。
日本語が使えるみたいなので最初から日本語を入れてみたら、空振りばかり。単語だけだとたまに入力できたり。最後に半角スペースを入れると必ず更新されるみたいだった。なんか面白いサービスだ。
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やりたいこと、やらなければならないことが多すぎて、焦り気味。To Doリストにリストアップし直して、優先順位付けが必要だと思う。
しかしリストアップする以前の雑務をRPGのダンジョン巡りのようにこなす。選挙に行き、その足でビックカメラに寄り腕時計の電池交換、スボンのベルトの購入、図書館で予約本の引き取り。各種アイテムを拾って帰らないと、次のフロアに行く扉が開かないかのようだ。
DVDレコーダーのHDの空き容量も既に一杯。昨夜、「帰ってきた時効警察」に向けての特番「朝まで時効警察!復活直前〜傑作選&番外編」は気がついたらHDの残りが30分くらいで、始まってまもなくHDが一杯になる。仕方ないので、DVD-RWに続きを録画…しながら、空きを作ろうと「エコエコアザラク〜眼〜」を見ていた。もう自転車操業もいいところ。今必要なのは、頑張って見ることではなくて取捨選択なのだが。
読書は『天使と悪魔(中)』(ダン・ブラウン 角川文庫)を中断して、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(桜庭一樹 富士見ミステリー文庫)を読む。
流されるように一日は過ぎていく。せめて今日中に、To Doリストを作ろう。
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今日の最低限の目標として、To Doリストを作ること。それもやばそうなので、風呂で考えた。メモ帳に鉛筆で書き出す。こういうとき、紙と鉛筆という原始的な道具は役に立つ。防水パソコンってまだ当分出そうにないもんね。
で、リストアップするまでもなく判っているのだけれど、リストアップしてみてやっぱり欲張りすぎだと再認識。To Doリストに書き出したものを、効率的にこなしていくのではなく、まずTo Doリストに載せないことが重要だ。やるべきでないことを捨てること。
mixiで書いた、今年の目標のひとつは、「捨てること」なんだけど全然目標に近づいてない。
一番今ネックになっているのはテレビドラマの視聴だ。たぶん、この一年でこの十年に見たくらいの量のドラマを見ている。ほとんどテレビは見なかったのに、今やテレビ録画の領域を明けるために追われている。
でも、本も映画も本当に読みたいものや観たいものとの順番があっていない。図書館を活用し始めたら、予約が集中する新刊本に予約を入れるようになった。貸し出し期限があるので予約が廻ってくれば優先的に読む。これはこれで緩い強制力となってよいのだが、予約しなくても読める本は自然と後回しになっていく。ホントに読み本はどっちだったのかというと、逆転していたり。
「生きている作家の本は読まない」といったのは、『風の歌を聴け』の「僕」だったっけ? それくらい極端なルールを決めないといけないのかもしれない。そうしたら、テレビドラマは一本も見なくてよくなる。もともとテレビドラマはほとんど見てなかったのだから、元に戻るだけだけど。
でも今必要なのは、ドラマだけじゃなくて、すべてにおいての「捨てるルール」なのだと思う。
というわけで、To Doリストの一番上に、「捨てるルール」を決める、というのを持ってきた。ルールを決めたら、実行するだけだ。問題は解決したも同然だ。ほんとか。
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『アンフェア the movie』を観る。
ドラマシリーズの「アンフェア」で久々にドラマにはまった。どれくらいはまったかというと、テレビをまともに観るのは週に1時間程度、ドラマはほとんど観なかった人間が、ドラマって思ったより面白いかもしれない、と思ってドラマをチェックするようになるほどにはまった。その結果、裏番組で録画できないものを除いてほとんどの連続ドラマを録画して、昼間のドラマの再放送も録画して、先クールにはアイリッシュ原作というのもあったけれど昼ドラの「美しい薔薇」まで録画して観るはめになった。今や、DVDレコーダの空き領域と録画との戦いの日々を送っている。
そのアンフェアのスペシャル「アンフェア the special コード・プレーキング−暗号解読」が放送されて、一度は終わった連ドラがスペシャルで復活するのは嬉しかったが、それ以上は期待していなかった。が、なんと結末には思わぬシーンがついていて、映画の予告が流れたときにはやられた!と思った。
これはもしかしたら、映画でも終わらないんじゃないかと思った。連ドラにはバツマーク殺人事件とかバツサイトなるものが出てきたが、「アンフェア the special コード・プレーキング−暗号解読」では「After X comes Y」なる謎の言葉が出てくる。Xがバツを意味し、Yがでてきたのなら、次はZとまだ続くではないか。
そう思っていたのだが、『アンフェア the movie』は当初仮題として『アンフェア・ザ・ムービー 最期の作戦 オペレーションZ』だったらしい。それを知って、Zは映画だったのだ、ということは映画で完結なのだとちょっとがっかりもした。
そんな風に期待一杯、でも焦らずに少し遅れて映画館に足を運んでみたわけだが、映画はちょっと物足りなかった。ドラマから映画化された映画というのもあって、大画面で観る二時間ドラマという感じがしてしまうのが一つ。
それでも、映画ということでスケールを拡大しようというのか、爆破事件、テロリストによる警察病院の乗っ取り、対する警察の対応はSATの突入と派手な物語が展開する。雪平(篠原凉子)は、テロリストに占拠された病院に入院していた娘美央が病院に残っていると知り、テロリストから美央を救い出そうとする。
しかし、雪平対テロリストっていうのはちょっと無理がある。いくら犯人の射殺も躊躇わない雪平といえども、ダイハードでもなければスーパーマンでもない。『ダイハード』や『ホワイトアウト』みたいに最初からそういうキャラの話ならまだいいが、雪平のキャラはそんな特別な人間ではない。それはもうドラマで完全にできあがっているのだ。
そんな雪平の活躍の物語よりも、連ドラのときの、犯人の意図が判らず、誰もが怪しい謎に満ちていた「アンフェア」の方が、「アンフェア」らしい。
この映画も誰が裏切り者かわからない、誰も信用できないというのが一つの売りのはずだった。予告でも雪平の「誰も信用しません」という台詞が入っている。にもかかわらず、誰も信用できず、誰が裏切り者なのかわからないことの緊迫感も乏しかった。「誰も信用しません」といって単独行動をするのは雪平らしいが、それによって物語としては裏切られる危機感がなくなってしまうからかもしれない。
意外性も弱い。最後の方で立て続けに明らかになっていくところは面白かったが、ただ真相が分かってもそれほど意外には感じなかった。たぶん、「誰もが怪しい」というのが、逆に意外性を削いでしまったのではないか。
もうひとつ、「アンフェア」は推理小説仕立てで、今までは犯人は最後に、もしくはだんだんとわかるものだった。今回は、椎名桔平のテロリストが病院の占拠をした時点で明らかになってしまう。テロリストという新たなキャラの登場ゆえ仕方がなかったのかもしれない。でも、あくまでテロリストはマスクをして顔を見せずにいて正体が不明だったり、あるいはテロリストに指示する黒幕の存在がいて、その正体や黒幕が最後に判るといった展開が欲しかった。
貶すばかりみたいなので、良いところも書いておくと、やはり「アンフェア」の完結編として終結するところはよい。連ドラで、父親の死の謎が一連の事件の解決とともに明らかになるものと思っていたら、父親の死は謎のまま終わってしまった。それが、スペシャルで明らかになるが、さらに一歩進んでこの映画の結末でその父親の死を巡る事件が一つの完結を迎える。これで本当に「アンフェア」が終わったという気がした。いや、それはそれで残念でもあるのだけれど。
[ 『アンフェア the movie』 監督小林義則 脚本佐藤嗣麻子 出演篠原凉子 テアルトダイヤ ]
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『蟲師』を観る。
面白かった。凄い良かった。時間があればまた観に行く。以上。
以下蛇足。蟲師だから、蚯蚓足なんて方がよいか。
実は、観に行く前はちょっと心配だった。大友克洋の漫画は好きだけど、実写映画を漫画と同じくらいのレベルで撮れるかというとかなり難しいんじゃないかと思った。過去の実写作品『ワールドアパートメントホラー』は観ていないのだが。たぶん、評は読んでいないが、なんとなく評判が今ひとつという噂も耳にしたので、それがあってやはり気になったというのもあるかもしれない。
漆原友紀の原作は一、二話読んだことがあるがほとんど読んでいない。その数話だけでも面白いと思った記憶がある。原作至上主義としては、当然原作を読んでから観に行きたかったが、読まないまま映画を観ることになった。なので、原作がいかに映画化されているかについては書けない。でも、想像するにかなり原作と違うものになっているような気がする。
何が良かったかといって、映画でもやっていることはやっぱり大友克洋の世界であるというところである。原作とかなり違うんじゃないかというのも、その辺から思うことである。漫画の1コマでも背景が白いと描き込みたくなるとか、そんなようなことをだいぶ昔にインタビューかなにかで読んだ記憶があるが、映画そのものがそんな感じがする。蒼井優の扮する淡幽の体に文字が浮き出て書を書いたり、その書いた書物を納めた蔵の中で、文字がものすごい数の蟲のようにはいずり回るところなど圧巻である。
ちょっと意外だったのは、アニメ作品ではスピード感がある印象が強いが、『蟲師』の世界は逆にゆっくりと流れる時間の中で描かれること。夢中になって観ていて、ふとそういえば随分ゆっくりした展開だなと思ったのだ。描かれている物語には丁度いいスピードだと思うが、ゆっくり過ぎて退屈な人もいたのではないかと思った(もちろん観客のたてる雑音からね)。
原作を読んでいる人の感想で、原作を読んでいないとわからないのではないかというのを目にしたが、映画だけを観ていて特に疑問は感じなかった。敢えて言えば、どう解釈したらよいのだろうと未だに思っているのは最後のシーンくらいだろうか。他にも疑問に思ったシーンはあったが、自然とこうだろうという解釈をしている。もしかしたら、原作を読むと違う説明があるのかもしれない。しかし原作と違っていたとしても、それぞれの解釈でいいように思う。
その辺のぼんやりした曖昧さが、また観ようかという気にさせているのかもしれない。
原作を読んでから映画を観ると、あれが描かれていない、説明が省かれすぎていて判らない等々思って、よく感想でもそういうことを書いている。それと矛盾するようだが、この映画ではその理屈は通らないように思う。なぜかというと、説明が足りなくて判らないというより、そもそも説明されていないと思うのだ。つまり解釈は観客に委ねられている。そうなると、原作の説明でさえ一つの解でしかない。
もっとも、原作を読んでいないので、そもそも原作にも書かれていないことなのかは判らないが。
原作のある映画を、原作を読まないまま観たとき、ものすごく原作を読みたくなる場合と、特に読みたいと思わない場合がある。映画自体が退屈で、原作に興味が湧かないという場合もあるが、映画が面白かったときにもこの両方のケースがある。『蟲師』については後者で、映画そのもので満足してしまい、原作として『蟲師』を読みたいという気は起こらなかった。単に、コミックスの『蟲師』には今も興味があり、読んでみたいが、例えばよく判らなかったところや映画では描かれなかった細部を確認したいとかいう欲求は全く感じなかった。映画で見事に完結しているからだろう。
[ 『蟲師』 監督大友克洋 出演オダギリジョー、蒼井優、大森南朋、江角マキコ 新宿ミラノ2 ]
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U5さんのこらないのドラマ『セクシーボイスアンドロボ』というエントリーで、ドラマの紹介。
僕もこの『セクシーボイスアンドロボ』というドラマ、今朝ほど朝食を取りながら15分くらい観た。タイトルと松山ケンイチで興味を持っていたドラマだが、U5さん曰く『すいか』と同じスタッフとのこと。『すいか』は、U5さんが結構おすすめしてたドラマで、興味はあったけど観たことはない。でもU5さんおすすめドラマと同じスタッフか、ふむふむ。
ドラマのオープニングでコミック調の画が出てきて気に入っていたのだが、こらないの記事で原作が黒田硫黄の同名漫画と知る。
よし、U5さんも気に入っているみたいだし、このドラマ観ようかな。
観ようかななどと、のほほんとした感想を述べているのは他でもない。この間のドラマを見るルールを決め、ルールに従って非情にもHDに録画したのに観ていないドラマをバッサリと削除、10時間ほど一挙にスペースができた。少しばかり余裕があるのだ。ははは。
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この間紹介したtwitterが面白い。
何で面白いのか。一つには元々やりたかったことに近いというのがある。「うたかたの日々」のような日記でもなければ、「妄想手帖」のような予定でもなくて、今を書いておくコーナーを自分のサイトにに作ろうと思っていた。例えば、読んでいる本とか、To Do(予定項目および終了項目)、毛色を変えて定点監視カメラで窓外の風景というのもいい。「妄想手帖」に似ているけど、行く予定のイベントの一覧。「妄想手帖」では開始日にしか表示されないので、大抵終了間際に慌てて駆け込む僕としては、自分の予定と絡めて表示したい(あ、これはTo Doと同じだ)。
わざわざ作らなくても、アンテナでアカウントを持っているが利用していないはてなダイアリーをそういう使い方に使ってもいいかなと思っていた。今は、実験中で別の使い方をしているけど。
そういうやりたかったものと同じというのもあるけれど、twitterってシンプルで機能が狭い、それがいいんじゃないかと思う。いろいろできるのではなくて、たった140文字しか入力できないというのがいい。機能がいろいろあって利用されるのではなくて、機能が限定されるが故に利用されるというのは面白い。
もうひとつ、twitterって、基本的には一方的に発言するだけというのがいい。「@username」を指定することで、発言先を示す仕掛けはあるが、あくまで先を示しているだけ。対話や返信が必要なわけではない。mixiではしばらく前に「読み逃げ」が是か非か話題になったが、twitterはむしろ推奨だ。あしあとなんていうやっかいなものもない。
誰かをfriendsに加えるには、承認もいらない。友だちだと思えば友だち。こちらが友だちだと思っているのに、相手が自分を友だちだと思っていないという関係性も成立してしまうというわかりやすさ。
なかなかfriendsが増えてこないのが寂しいが、ある程度数を超えてしまうとフォローできなくなるので数が多ければいいってもんでもない。あ、でも、数が多くなっても140文字という少ない文字だから、画面を斜めに眺めてもすむのかな。
僕のtwitterはこちらtwitter rojion。友だち求む。
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帰宅して、Webを一通り見ていて、カート・ヴォネガットの訃報を知る。
この間、植木等が亡くなったが、植木等の真面目なファンではなかった僕は、そんなときだけ日記に書くという気になれず、何も書かなかった。
カート・ヴォネガットについても真面目な読者でなかった僕は、普段なら書くことができない。僕が書いてはいけない気がする。
しかしこの間「捨てること」について書いたときに、『風の歌を聴け』から「生きている作家の本は読まない」なんてことを引き合いに出したことで、神様に「ヴォネガットくらい読みなさい」と怒られたような気がした。村上春樹もヴォネガット好きだったしね。
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『天使と悪魔(下)』(ダン・ブラウン 角川文庫)読了。『ダ・ヴィンチ・コード』と似たようなパターンだなぁと思いながら読み始めたが、中盤を超える辺りから面白くなってくる。こっちの方が、『ダ・ヴィンチ・コード』より格段に面白いよ。
『ラストキング・オブ・スコットランド』を観てきた。ジェイソンよりよっぽど怖いよ。13日の金曜日に相応しい。
どちらも別項で詳しく。
トップページの表示が異常に遅いので、何かと思ったらMOVIE-EYE提供のブログパーツを賑やかしに貼り付けていたのだが、この表示が遅くなっていた。直るの待ってられないので外す。
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『ラストキング・オブ・スコットランド』を観る。
ウガンダの悪名高き大統領アミンを、彼の主治医にして側近となったスコットランド人の青年医師の視点で描いた映画である。
アミン大統領の映画として、『人食い大統領アミン』という映画がかなり昔1980年代にあって、今回amazonで検索してみたがヒットしなかった。当時、数本のB級ホラーを友人が借りてきて仲間内数人で観たことがあり、そのうちの1本だったことは覚えているのだが、映画のことはほとんど何も覚えていない。
今回『ラストキング・オブ・スコットランド』を観て、(もしかしたら他の記憶と混ざっていて、違うかもしれないが、)思い出したことがある。部屋の中に小型の冷蔵庫が置かれていて、その冷蔵庫の中に人肉があったのだと思う。タイトルには『人食い大統領アミン』とあるが、実際に人肉を食べるシーンはなかったか、あってもほんの1シーンだったような気がする。
そのときのアミンがどう描かれていたか覚えていないが、この映画のアミンは恐ろしくも無邪気な、残酷でありながら魅力的な人物として描かれている。ちなみに人肉は食べない。(前半でアミンがパーティの挨拶で「人肉料理ではない」とジョークをいう場面、後半で「人肉を食べるとCIAがデマを流している」という場面はある。)
物語は青年医師ニコラス・ギャリガンがウガンダにやってくるところから始まる。学校を卒業するなり医師として自らウガンダにやってくる純粋さと、若さ故の軽率さを併せ持った青年である。ウガンダにおける医療は想像以上に悲惨だった。村人たちの8割は医者よりも呪術師を頼る。そんな村には先輩医師の一人しか医者はいなかった。
ギャリガンは、病院に来る道々で新しくアミンが大統領となることに沸き立つ民衆たちの姿を見てきた。そしてまさにそのアミン大統領が演説に来ると知り、一目その姿を見ようと集会の場所へと向かう。現れたアミンの力強い演説、それに沸き立つ民衆の姿にギャリガンは笑みを隠せない。その帰り道、自動車を走らせるギャリガンたちを軍の車がストップをかけた。アミン大統領が怪我をしたので、医者を捜しているというのだ。大統領の手当をしたことが切っ掛けで、ギャリガンはアミンの主治医として招かれることになる。
映画はこのアミン大統領の登場からずっと緊迫感が続く。アミンの憮然とした表情は何を考えているのか判らない怖さを感じる。クーデター後の政権で、大統領の周りには銃を手にした兵士たちがいる。いつ何が起こってもおかしくない。全編を通じて流れ続ける音楽は陽気で、ギャリガンは終始笑みを浮かべているが、むしろその緊迫した情勢に気づいていないギャリガンの無邪気さが恐怖をじわじわと感じさせるのかもしれない。
ギャリガンがアミンを治療するシーンは、最初の緊張の場面である。一触即発の緊張がピークに達したところで、アミンの満面の笑みがギャリガンを迎える。このアミンを演じるフォレスト・ウィテカーが見事である。
その後、観客が感じているであろう不安感をよそに、ギャリガンはアミン大統領の気さくさに惹かれ、一方アミンもギャリガンを気に入り主治医から側近的な立場として意見を求めるようになる。アミンはだんだんと狂気的な側面を見せ始めるが、ギャリガンはそれに気づかず気づいたときにはもう引き返せないところにいることに気づく。
アミンの魅力と恐怖の二面性は観客の目からは冒頭からはっきりしているのだが、当のギャリガンにはずっと魅力的な面しか見えていないようだ。そして、ギャリガンはだんだんと泥沼に踏み込んでいき、ギャリガン自身が気づいた頃からは自ら進んで罠にはまっていくように破滅へとまっしぐらに進んでいくので、ハラハラのし通しになる。事実をベースにした物語でもあることだし、まさかサスペンス的な作品だとは思ってもいなかったのだが、もうこれは極上のサスペンスといっていい。
どこで映画がラストシーンとなるかは書かないが、物語は事実に即しているのでアミン大統領の失脚で終わる。アミンとこれほど関わり合うことになったギャリガン医師の衝撃的な人生に、彼は実在の人物なのだろうかと興味をもったが、原作の『スコットランドの黒い王様』(ジャイルズ・フォーデン 新潮社)にもでてくる、ジャイルズ・フォーデンの創造した架空の人物、ただしアミンと親しくしていた西洋人たちをモデルにした人物だそうだ。そう聞くと、数々のエピソードがリアルに感じられる。
[ 『ラストキング・オブ・スコットランド』 監督ケヴィン・マクドナルド 出演フォレスト・ウィテカー、ジェームズ・マカヴォイ MOVIXさいたま ]
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納富から、アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が面白いと聞き、朝から観る。貸本時代の「墓場鬼太郎」みたいな陰気な感じというのを聞いて、イメージしたのは必ずしも正義の味方ではなくて、妖怪としての鬼太郎。その点では期待と違っていていまいちだった。でも誉めているのが、『水木テイストは残しつつ、京極夏彦以降の妖怪の概念とか、小松先生の「異界」とかを混ぜた妖怪たちの町が、とても良く出来ていると』というところで、今日の話だけだと判断がつかなかったので、引き続き観て見ようと思う。
夕方から新橋演舞場で『桂春団治』を観る。「浪花恋しぐれ」で、「芸のためなら女房も泣かす」と歌われた桂春団治の一代記。春団治を演じたのは沢田研二である。結構、面白くて良かった。
帰りに買って帰った「辛口生一本真澄」を飲む。2合くらいずつ、二回に分けて飲もうと思っていたのにあらあら気がついたらほとんど飲み終わってしまいます。でも、気持ちいい。
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面白いという評判だったので手にした一冊。噂に違わず実に面白かった。実は津原泰水も初めて読む作家であるが、他の作品も読みたくなった。
物語は、ひとことで言ってしまうと、四十を過ぎた大人たちが、ある切っ掛けから高校時代のブラスバンドのメンバーを集めて、ブラバンを再結成しようとする、という話である。
ページを捲ると、目次に続いて「登場人物」が書かれているが、そこに書かれている登場人物だけで34人もいて、人物紹介はほんの数文字だが3ページに亘っている。普通なら、斜めに目を走らせそのまま本文にはいるのだが、進みかけてもう一度ページを戻り、登場人物を「読んだ」。
紹介内容は、名前、楽器、紹介となる。例えば、一人目は「高見沢庸子(Ob)……… 副部長。のちにグラビュアモデルとなる。」となっている。この登場人物を「読んでも」、一人として覚えられるわけはないが、この時点でものすごく面白いに違いないと確信した。34人もの登場人物が描き分けられて、高校時代と現在について描くことに成功したら、それがつまらないわけはない。そして面白いという評判なのだから、成功しているのだろう。そう期待を膨らませながら、しかしその反面こんなにたくさんの登場人物を、全然違う立場の人間ではなく、高校のブラスバンドの部員などという同じ属性の中で描いて、本当に描き分けられるのだろうかとちょっと疑問も感じながら、読み始めた。
疑うまでもなかった。見事にブラバンに、音楽に夢中になった高校生たちが描かれていた。もうひとつ、物語の面白さそのものに加えて、読んでいる自分が、現在と過去いずれの時代も登場人物たちとほとんど同じ時代に生きていることが、数々のエピソード、その時代のできごとと共鳴したことが、面白さに拍車をかけていたかもしれない。ずっと若い人たちが読めば、そういう時代もあったのかという興味を持つだろうが、同じ時代に生きた者には、そうそういう時代だったという感覚が強い。
僕自身はバンド経験がないが、同じようにバンドをやったことがある人たちは、また別の共感を得るだろう。
たぶん、この小説を読んで一番幸福なのは、1980年頃高校生でバンドに入れあげていた、四十過ぎのおじさん、おばさんだろう。もしあなたが該当するならば、今すぐ、登場人物たちと同じ四十過ぎくらいのこの時期に読むべきである。たぶん、まさに今がこの小説を読んで一番幸福な瞬間なのである。
この時代の差は徐々に開いていく。時代的に合わないとして、次にこの小説を読む幸福を味わえるのはたぶん四十から五十くらいの人たちだろう。かつてのバンド少年たちのための小説なのだ。今まさに学生で、バンドにのめり込んでいる少年少女たちがこの小説を本当の意味で読んで幸福な気持ちになれるのは、残念ながら、あと二十年、最低でも十年ほど待つ必要がある。少なくとも、一旦はバンド活動などは過去の夢だと諦めるくらいの月日が必要である。
あとはあまり語ることはない。本を読んで泣くことはあまりないが、二回も途中でグッと来てしまったとだけ書いておこうか。
[ 『ブラバン』(津原泰水 バジリコ) ]
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amazonからのDMで、橋本一子の新譜『Vega』の発売を知る。早速amazonをアクセスしたら、これに先立ち『Ub-X』なるCDがあったことも知る。ずっと橋本一子さまの新譜は出ていないと思っていたよ。普段要らないとおもっていたamazonのDMだが、今回ばかりは感謝。
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